<2022.7.12寄稿> 寄稿者 たぬきち
*「幻人」は、久生十蘭 訳「ファントマ」(1937年)の命名
1911年、スヴェストルとアラン共作「ファントマ」が、ファイヤール社の廉価本シリーズでスタート。月1冊の驚異的スピードで、1913年末までに全32作出版。「ベル・エポック」末期のパリを舞台、ファントマとジューブ警部が繰り広げる戦いに、全仏の読者が息をのんだ。
1913年からは、その無声映画版が次々製作されたが、翌1914年、第一次大戦勃発により5作で終わった。同年には、原作者スヴェストルが病死。それでも大戦後、アランは一人で「ファントマ」シリーズ続編を出版。
1932年は「ファントマ」再発見の年で、既刊全冊の要約版が再刊され、また、同年5月20日封切で、トーキー(音声入り)映画「ファントマ」劇場版公開。無声映画を懐かしむようなカット割りと、俳優達の大仰な演技にもかかわらず、列車も飛行機も自動車レースも登場する欲張りようで、観客は大満足。
そんなところへ、6月27日、突然、新聞各紙が「ファントマ逮捕!」と大報道。いくら追いかけても、決して捕まらないのが「ファントマ」ではなかったか。だが、新聞の見出しは、「スピオン(スパイ)」と大書。「ファントマ」を名乗る人物が率いる、ソ連スパイ網摘発の大ニュースだった。
フランス軍とパリ警察の防諜部門は、この4~5月、活動を活発化した「ラブ(労働者)・コール(通信員)」組織の監視に努めてきた。巨大な双子煙突がシンボルのシャテルロー造兵廠(ぞうへいしょう。美しく堅牢な建築の社屋は、いまは博物館)から、新型機関銃の試作品現物か設計図を盗む目的で、共産党機関紙「ユマニテ」編集部経由で工作したものの成果なく、ついに「ファントマ」自身が乗り出してきたという。
このフランス最大の兵器工場は、帝政ロシアの総司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公のお気に入りで、ロシア軍の大量注文をフランス側の融資でまかなった。革命で大公は南仏に亡命、ソビエト政府は帝政時代の債務支払を拒否(100年前の「デフォルト」で、シベリア出兵の一因となる)。今回は、スパイ活動に賭けたのだった。
フランス側は、「ユマニテ」編集部員の一般犯罪行為を口実に、あらかじめ情報提供者をもうけており、地下鉄トルビアック駅で工場の書類を受け取った「ファントマ」を逮捕。その正体は、風采の上がらない亡命ポーランド人学生イザヤ・ビールだった。関係先大捜索と60名以上の大量逮捕の結果は、6名のみ有罪、しかも3年以下の刑と、「ファントマ」の名に刺激されたフランス側の勇み足のようでもあった。
大戦初期の1914年9月、フランス軍は、パリ近郊数10キロに迫ったドイツ軍に対して、2千台のパリのタクシーをかき集めて兵士を乗せ、マルヌの戦場に送った。パリ防衛成功は「マルヌのタクシー」ではなくて、東部戦線で攻勢に出た大公のロシア軍のおかげ(タンネンベルクの戦い)。大公は1929年に亡くなり、カンヌの聖ミカエル大天使教会に埋葬された。
大戦中、大公は武器と引き換えに4万人のロシア兵を遠征軍としてフランスの戦場へ送っており、2011年、プーチン「首相」とサルコジ政権下のフィヨン首相(フィヨン夫妻もいま別の汚職容疑で裁判中)が、パリのカナダ広場に記念碑建立。2015年、大公夫妻の遺骸は、カンヌからモスクワの軍人墓地へ移された。「兵士といっしょに」という大公の遺志によるとのことだが、遠征旅団兵士の墓はフランス各地にあるのだから、移葬は不要だったのでは。
やはり「ファントマ」は、不死鳥のように復活する。第二次大戦前の1937年、人民戦線内閣の内務大臣マルクス・ドルモワが、極右の秘密軍事組織を摘発したことに怒り、右翼の歌手マルティニがコンサートで、彼を「ファントマルクス」と命名。「資本論」のカール・マルクスで「ファントマ」と共産主義をつなぎ合わせ、烙印を押したのである。
これを受けて、今では共産党を脱退し極右に転向したジャック・ドリオは、「リベルテ」紙で「ファントマルクス」を執拗に非難。ドルモワが内閣を去っても、その矛先を緩めることはなく、1941年、ついにドルモワは暗殺される。就寝中、ベッドの下に仕掛けられた爆弾が爆発。
ドリオの新聞のほか、マスコミにはドルモワを悪魔化する論説や、ユダヤの出自を示唆する漫画も多数あらわれ、それが暗殺者達の背中を押したのではないか、あるいは、ドリオ配下の実行部隊の仕業か、不明のままである。親独派のドリオ以外、反共の軍事組織で活動した者の多くはドイツを嫌い、その後、レジスタンスに加わったため、過去の経歴のロンダリング(洗浄)がなされ、事件は忘れられた。