<2022.5.24寄稿> 寄稿者 たぬきち
コートダジュール(紺碧海岸)ニース市の中心部から北西に徒歩25分、それまでの南国イメージが一変し、純ロシア風葱坊主の彩色も美しい聖ニコラス大聖堂が姿を現す。その背後にひっそりとたたずむニコライ皇太子教会と共に、貴重な歴史的建造物に指定されている。観光名所としても有名で、世界中からの訪問者が年間20万人超。
ロシアによるウクライナ侵攻開始から間もない3月11日、大聖堂をつかさどるエリセーエフ大司祭に匿名の脅迫状が届いた。「おまえはプーチンの友達、ロシアに帰らないと命はない!」と、短い文面。早速、ニース検察庁へ知らせが届いたが、警備は民間業者にまかせ、ニース警察の周辺パトロールを増やしたものの、大聖堂は信者にも観光客にも開かれたままである。
ウクライナ支持派の市民達が計画した大聖堂前でのプーチン抗議デモは、暗殺の脅迫状がきっかけで中止された。大聖堂の近所の電柱には、戦争反対のビラが貼られている。入り口には黒いスーツ姿の屈強な警備員達が鋭い視線で立ち、VIPの訪問者が黒塗りの高級車で訪れたり、大祭日には外国人観光客が入場を断られたりしている。
元々ニースはロシアからの移住者が多い街で、大聖堂周辺の街区にはロシア料理店や菓子店も立ち並ぶ。最後のロシア皇帝ニコライ2世の祖父アレクサンドル2世(フィンランド大公にしてポーランド王でもあった)が、その長男ニコライ皇太子がこの地で病死したのをいたみ、土地を購入して祈念教会を建立した。そのそばに建てられたのが聖ニコラス大聖堂だが、日露戦争などで遅れ、完成したのはニコライ2世の時代だった。土地は、帝政ロシア政府からロシア正教会へ99年リースとされた。
革命後、亡命してきた白系(反ソビエト)ロシア人が中心となった信者団体が教会と大聖堂を維持管理してきたのだが、ソビエト連邦が崩壊しロシア共和国となり、2010年には、返還を求めるロシア政府の訴えがニースの裁判所で認められた。団体は破毀院(フランス最高裁)まで争ったが、2013年、裁判所の判断は変わらなかった。
ロシア政府は、大聖堂と教会の鍵を受け取ると、それまでコンスタンチノープル総主教庁(ギリシャ正教会本部)の下にあったものをモスクワ総主教区(ロシア正教会)に委ね、フランス正教会による人事も廃して、司祭をモスクワから派遣した。従来の団体が乏しい財政事情から観光客の入場料収入を財源にしていたのも、ロシア正教の本旨に反するとして無料化(ガイドツアーは有料)。また、本部の資金で2年かけて内外の大改修をおこなった。
フランスの裁判所の最終判断が下され、大聖堂はロシアのものとなったが、それを待ち受けていた人々がいた。1856年、帝政ロシアはクリミア戦争に敗北、財政窮乏でアレクサンドル2世は、1867年、アラスカを米国に売却する。1891年からのシベリア鉄道建設でも、国債や鉄道会社の社債に政府保証をつけてフランスの金融市場で資金を調達した。大勢のフランス国民が、これらの国債や社債を購入したのだった。
ロシア革命が起きると、革命政府はこうした帝政時代の対外債務を一切無効にすると宣言。その国債・社債券は紙切れ同然になり、先人達の愚痴の種と化してしまった。けれども、大聖堂がロシアのものと決まるや、その子孫の人々が先祖の遺品の中から紙片を取り出し、原告団を結成、大聖堂の差し押さえを提訴したのである。そもそも土地の購入資金はロシア皇帝のポケットマネー、建物の建築は大勢の亡命者達の寄付によったのだから、決してロシアの国有財産ではないという理由である。これも最高裁まで争われたが、2019年、ロシア国家の主権行為を外国であるフランスの裁判所で扱うことはできないという理由で、やはり紙切れのままで終わった。
ロシアによるウクライナ侵攻の行方は、まだ見通すことができないが、フランス政府は対ロシア制裁の一環として、ロシア関連資産の凍結等を段階的に進めている。フランスの裁判所が大聖堂を正式にロシアのものと認めたことがかえって裏目となり、これも没収されたりするかもしれない。大祭日の日、門前の警備員は、「在ニースのロシア領事館の指示がなにものにも優先する」と言って、アメリカ人観光客の若者達をしりぞけながら、「ここがロシアであることを忘れてもらっては困る」と言うのだった。