<2022.8.8寄稿> 寄稿者 たぬきち
1944年冬、「ジークマリンゲンでは士気昂揚のための講演会やコンサート、夜会などが頻繁に開かれていた。すべて、正気の沙汰とは思われない。セリーヌは或る日ベルギーのナチ指導者レオン・ドグレルの「新生ヨーロッパとフランスの再興」と題する講演を聴きに行き、途中で席を蹴って騒々しく退場したと言う」(高坂和彦 訳「城から城」訳者解説)。「タロットカードの「吊られた男」ですらない(さかさまに足首で吊られ、足で鉤十字(スワスチカ)を示している)、へらず口を叩くこの愚者の王は誰だ?」
「タンタンわが友」は、1990年代初めにドグレルによって書かれ、1994年スペインでドグレルが亡くなり6年後に公開された(エルジェは、1983年死去)。ドグレルは、有名なベルギーのナチ。同書で彼は、自分がタンタンだと主張。ドグレルの若い写真を見ると、タンタンとよく似ている。「レクシズム」と呼ばれるファシスト運動のリーダーであるドグレルは、エルジェの親友だった。反共産主義、カトリックで、ソ連と戦うためにナチスと行動を共にしたワロン軍を率いた。ドグレルはみずから東部戦線へ行き、アドルフ・ヒトラーの後継と期待されるほどの、ナチズムの神話上の人物になった。彼のライバルのフランス人民党リーダー、ジャック・ドリオも、ドイツ軍と共にスターリングラードで戦い、ペタン元帥の後継と目されたが、1945年2月22日、2機の連合軍機がボーデン湖の近くでドリオの車を機銃掃射し、殺害された。
ドイツによるベルギー占領期、報道機関は管理され、「ル・ソワール」紙は、ドイツに許された数少ない新聞の1つ。新しいボスのレイモンド・デ・ベッカー(のち死刑から終身刑、国外追放)のもとで、エルジェは「金のはさみのカニ」を連載。戦後ずっと、パリからデ・ベッカーはエルジェと連絡をとり続けた。エルジェは定期的に彼を経済援助。デ・ベッカーは拘留中にユングの精神分析を見出し、その後ユングに会った。1959年、エルジェが精神的に苦しんでいたとき、チューリッヒの精神分析医に相談するよう勧めた。デ・ベッカー自身は、1969年、ベルサイユで自殺。エルジェの恩師ワレス神父も投獄された。ベルギー解放後の軍事裁判所が命じた最初の死刑執行は、ブリュッセルのサンジル刑務所で銃殺隊によって1944年11月に行われた。その一人ポール・ヘルテンは、「ソワール」紙の同僚で、対独協力者を殺害したレジスタンスの若者をゲシュタポに密告したことが理由。
1945年4月20日から26日にかけて、シュチェチン(現ポーランド)近くのオーデル川で、ドグレルのワロン軍は最後の戦いを繰り広げた。ソビエトの機甲部隊に追われ、再編成のためリューベックに撤退するよう命じられた。キールからデンマーク国境のフレンスブルク、首都コペンハーゲン。しかし、5月5日午前8時、デンマークのドイツ軍は降伏した。夕方、ドイツ海軍の掃海艇で港から脱出し、6日午前10時、オスロ港に到着。そこで彼は、ノルウェーのドイツ帝国コミッショナーであるヨーゼフ・テルボーフェンと親衛隊将軍ヴィルヘルム・レディース (どちらも5月8日自殺)に会った。「日本行き潜水艦? Uボートは、はるばる日本まで連れて行ってくれるかもしれないが、日本も敗戦必至だ。空港には、まだアルベルト・シュペーア軍需大臣の専用機ハインケル111が残っている。運が良ければ、スペインにたどり着ける」。
ドグレルはパイロットの車に拾われた。空港に到着すると、彼らは飛行機ですぐに出発。5月8日朝、パイロットは、バスク州サン・セバスチャンのラ・コンチャ海岸に緊急着陸を試みた。飛行機は着水して大破、ドグレルは重傷を負った。地元民が彼らを飛行機から助け出し、病院へ運んだ。フランスのラバル元首相一行がバルセロナのエル・プラット空港に降り立ったわずか6日後だった。
ベルギーでは、ドグレルは不在で死刑を宣告され、スペインは彼を引き渡すよう多くの圧力をかけられた。だがフランコ総統が統治していたスペインでは、ラバル元首相引渡しに何ら見返りがなく、すぐ処刑されたことをアルバ公ら保守派が非難。政府も、今回はこれを拒否。その後、ドグレルはホセ・レオン・ラミレス・レイナという名前でスペイン国籍を取得、永住した。
ドグレルがオスロにたどり着いた3週間ほど前の4月15日(ベルリンに対するソビエトの最終攻撃が始まる1日前)、日本へ向かうドイツ海軍の潜水艦U-234がノルウェーのクリスチャンサン基地を出航。5月14日、アメリカ東海岸沖で駆逐艦USSサットンに降伏。同乗の友永英夫と庄司元三の両中佐(階級は、いずれも当時)は、自決。押収された日本向け積み荷の酸化ウラン560キログラムがどうなったのか。8月6日、広島に投下されたウラン爆弾に使われた可能性は低いとされている。