<2022.9.16寄稿> 寄稿者 たぬきち
1969年、政権の座を降りたド・ゴール元大統領は、引退先の小村コロンベイの自宅で『大戦回顧録』の執筆に取り組んでいた。訪問した作家・政治家のアンドレ・マルローに、「われわれは、大きな力に立ち向かう小さい人間、タンタンなのだ」、「私の身長(193センチ)のせいで、気づいてもらえないがね」と言った(新庄嘉章 訳『倒された樫の木』新潮選書)。
その感想を求められ、著者エルジェは、「タンタンにくださった名誉で、かえって私は、いっそう謙虚かつ真剣であらねばと思いました」と、返信した。うれしかったに違いない。ドイツによるベルギー占領中の協力で、「金のはさみのカニ」初登場のハドック船長のセリフに、不在のまま死刑判決(のち、恩赦)を受けた作家セリーヌの反ユダヤパンフ「虫けらどもをひねりつぶせ」(石橋晴己 訳『セリーヌの作品14』国書刊行会)の罵声(ばせい=ののしり言葉)を借用していた。戦後差し替えられたが、指摘されれば深刻だった(エミール・ブラミ『セリーヌ、エルジェとハドック事件』2004年[仏語])。
左翼哲学者として一世を風靡したジャン=ポール・サルトルも、『嘔吐』の冒頭で、セリーヌ「教会」から一文を引用している(白井浩司 訳・人文書院)。こちらは、反ユダヤ宣言以前だった。1945年1月、「フィガロ」誌からアメリカに派遣されたサルトルは、自分が大歓迎されていると気づく。そのような実態はないのに、仏領アルジェリア出身の作家アルベール・カミユ(『ペスト』宮崎嶺雄 訳・新潮社)の推薦で、「ついに正体をあらわしたレジスタンスの頭目は、小柄な哲学者!」というのは、いかにもアメリカ人好みだった。
繁栄する当時の米国での評価で一気に世界レベルに達したサルトルだが、その「物質主義」は気に入らず、以降の彼は、徹底した反米・親ソビエトの立場をとるようになる。フランスの知識人でただ一人、広島原爆に反対を表明したカミユに対しても、アルジェリアにもつかず、フランスにもつかない不徹底ぶりと、1951年、『反抗的人間』(佐藤・白井 訳・新潮社)で、「革命の暴力でなく、抵抗を」としたことを批判、ついに絶縁にいたる。
以後のカミユが、荒々しい世界情勢の中、道徳的ためらいを続け筆が進まないのに対して、サルトルと、その伴侶(はんりょ)シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、しばしばソビエト旅行に招待され、「あと数年で、ソ連の水準はフランスを上回る」というほどになった。その一方で、サルトルは、ソ連の「強制収容所」の存在を非難しないと指摘された。
1956年、ソビエト政府は反ソ的な動きを示したハンガリーに対して軍事介入(「ハンガリー動乱」)。カミユは、ソ連の政策の非人道性を激しく非難、ハンガリー支援運動の先頭に立つ。サルトルも、ようやく、「スターリン主義」批判をはじめた(スターリン自身は、すでに1953年に死去)。
そうした影響もあってか、カミユは翌1957年ノーベル文学賞を受賞。カミユのノーベル賞は、フランス国内の左翼主流の文化人社会で、彼の立場をいっそう悪化させた。授賞式後の講演で、アルジェリア紛争について問われ、「私は正義を信じる。しかし、正義より前に私の母を守るだろう」と答え、物議をかもした(ロットマン『伝記 アルベール・カミユ』大久保・石崎 訳・清水弘文堂)。
ハンガリー動乱に対するフランス政府の対応も、腰がひけていた。1954年からのアルジェリア戦争は、まだこの先1962年まで終わらない。1956年は、スエズ動乱(第2次中東戦争)の年でもあり、フランスは、エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化宣言を受け、イギリス、イスラエルとともに参戦した。
1954年のインドシナ戦争におけるディエンビエンフーの戦いでは、フランス外人部隊の戦死者の3分の1が、元ナチス親衛隊員だった(ボーヴォワール『或る戦後[下]』朝吹・二宮 訳・紀伊國屋書店)。このたびのアルジェリア戦争では「動員令」が復活、映画「シェルブールの雨傘」の自動車修理工ギーのように、青年たちに「召集令状」が届いた。サルトルは、アルジェリア民族解放戦線(FLN)を支持する一方で、応召(おうしょう)を拒否せよとアピール。「もはや国家反逆罪にあたるのでは」という側近に対して、ド・ゴール大統領は、「『現代のヴォルテール(18世紀の啓蒙思想家)』を逮捕したりしないよ」と答えた。
1959年10月、ド・ゴール大統領は、翌年3月予定でソ連のフルシチョフ首相を招待したと発表。さっそくフランス共産党は、フルシチョフ歓迎の地ならしに取りかかったが、それはカミユも同じだった。フルシチョフが面目を失うほどの反対運動を展開しなければならない。
1960年1月4日午後2時前、出版社主ガストン・ガリマールの甥ミシェルとその妻子とともに、ミシェルが運転するスポーツカーで、南仏プロヴァンスの自宅からパリに向かう途中、車が並木に激突、カミユは即死した。ミシェルは5日後に死亡。妻と娘は負傷。真昼の広い直線道路で起きた事故は、ソ連のKGB(秘密・情報・工作機関)が、タイヤがパンクするよう仕掛けた特殊器具によるという説があるが(カテッリ「カミユの死」2019年[仏語])、伝聞(でんぶん)のみで物的証拠はない。
3月23日、パリのオルリー空港にフルシチョフの乗機が到着した。