<2023.2.22寄稿> 寄稿者 たぬきち
セーヌ川のシテ島をおおうようなノートルダム大聖堂の巨体を見上げると、高くそびえる尖塔(フレッシュ=矢と呼ばれる)復旧作業の櫓(やぐら)が目に入る。パリの朝を告げる塔頂の雄鳥も、瓦礫の中から救出されたもの。本堂の丸天井の中心に尖塔を乗せることは、修復再建したアーチ構造のバランスが完璧でなくてはならず、難易度の高い作業がいま始まっている。
大聖堂内部の参観はオリンピック後になるが、選手団が上陸するイエナ橋そばトロカデロ宮殿の芸術・文化財博物館では、2023年2月15日から、その「復旧作業展」が始まった。
2019年4月15日の大火で尖塔が崩落する瞬間がリアルタイムでテレビ報道され、パリっ子は悲鳴を上げたが、それ以上に胸を痛めたのはシャンパーニュ地方ランス(パリ東方150キロ)市民達だった。1914~18年の第一次大戦で、古都ランスとそのシンボルである大聖堂は甚大な被害を受けた。パリの炎上シーンはランスのそれを再現するものに映った。
1914年8月、皇帝のドイツ軍は「シュリーフェン計画」に従いベルギーを蹂躙(じゅうりん=踏みつぶす)、フランス各所で仏軍を撃破しながら進軍し、マルヌ川東岸沿いに布陣、首都パリに迫る勢いを示した。フランス側は西岸でこれと対峙、9月前半の「第一次マルヌ会戦」で奇跡の勝利。パリ防衛軍司令官は、市内のタクシーを集め、兵士を前線に急送した。タクシーは通常営業どおりメーターを倒して走行、司令部から料金が支払われた。ナポレオンの棺を納めた「アンヴァリッド(廃兵院)」の軍事博物館に、ルノーAG型の「マルヌのタクシー」が展示されている。
「今はつぶれたが、エトアル廣場にあったドイツ人經營のアストリヤホテルの地下室から、カイゼル御紋章いり、千九百十四年八月十八日と確定日付あるメニューが發見され、宣戦布告八月三日から二週間目には、 Nach Paris! が實現し、皇帝自身こゝで大勝の賀宴を張られる譯であつたらうといふ噂も耳にした」(瀧澤敬一『フランス通信』岩波書店1937年)。「アウスフルーク・ナッハ・パリス(パリへ旅行)!」は、当時のドイツ兵の流行り言葉。その後、接収されたホテルには日本赤十字病院が開設され、戦傷病者の治療にあたった。
ランスの街は、マルヌ会戦時にドイツ軍に占領されていたが、去り際にドイツ砲兵隊は大聖堂を砲撃していった。仏語圏のジャーナリストに贈られる「アルベール・ロンドル賞」に名を残すロンドル記者は、国会担当を経て、いまは従軍記者となっていて、その報告を耳にするとカメラマンと二人で軍用列車に便乗、途中からは自転車でランスへ向かった。「炎の中(フロントの聖像が)涙を流しながら、まだ立ち続けている」という彼の記事と、炎上する大聖堂の写真は絵はがきにもなり、ドイツ軍の野蛮さを象徴するものとして宣伝された。
ランス大聖堂は、歴代フランス王の戴冠式が行われた場所であり、救国の聖女ジャンヌ・ダルクも列席したことがある。ロンドル記者はこれで「署名入り」記事を書く立場へと昇格するのだが、決して「督戦(とくせん=戦いを奨励)」や「国威発揚(こくい・はつよう=自国が偉いとする)」タイプの記者ではなかった。たびたび軍事検閲と衝突、軍部の要注意リストに載せられる。連合軍によるダーダネルス海峡作戦(トルコ)にも出かけ、1918年終戦後、ウィルソン(米)・ロイド=ジョージ(英)・クレマンソー(仏)による戦後処理を不満として、イタリア政府に対しフィウメ(現クロアチア)で反乱を起こしたガブレエレ・ダヌンツィオ将軍を取材。連載記事でクレマンソー首相を批判。激怒した首相の直接指示で、彼は新聞社を解雇される。
フランスを勝利に導いたクレマンソーは、閣僚のピション外相と、遠く「ドレフュス事件」(1894年~)以前から、ともに新聞人として働いた経歴をもつ。そして今は、ピションがロンドル記者の「プチ・ジュルナル」紙の役員でもある。「飼い犬に手を咬まれた」。ユダヤ人のドレフュス大尉を擁護するエミール・ゾラの投稿に、「ジャキューズ=われ弾劾(だんがい)す」という簡潔かつ決定的な表題を考案、みずから編集する「オーロール(=オーロラ)」紙の第一面に掲載したのも、クレマンソーだったのだが。
4年間たびたび攻守入れ替わり、ランス大聖堂は跡形なく破壊され、瓦礫(がれき)の山と化す。跡地のまま戦争の惨禍のシンボルとする意見もあったが、フランスは不屈に立ち上がるとして、復旧案が採用された。修復には1938年までかかった。
ランス撤退時、大聖堂はドイツ軍の野戦病院として、約200名の負傷兵が収容・放置されていた。それを自軍が砲撃するだろうか、仏軍による反撃のせいではなかったかという指摘は無視されて終わる。
2023年1月9日、冷たい冬の雨の夜、フランスのマクロン大統領は、同国を公式訪問中の岸田首相をパリのノートルダム大聖堂の修復現場へ案内した。鉛(なまり)汚染のおそれから部外者の立ち入りは許されておらず、屋外で工事責任者のジョルジュラン将軍が、「もうじき尖塔再建のための足場がパリの空に上がり始めます」と説明した。地元紙によれば、岸田首相は、同じ2019年には沖縄の首里城火災が起きており、そうした歴史建造物の再建作業が困難であることを理解している、「ノートルダムの修復作業の速さに感銘を受けた」と述べた。マクロン大統領は、「火事の翌日には国民に希望を与えるために、5年内の再建を約束。ノートルダムを愛するフランス人に、10年、15年かかるとは言えません。今日はチーム全員に感謝!」と語った(「パリジャン」紙)。
第二次大戦後の1962年7月8日、旧西ドイツ首相コンラート・アデナウアーによる公式訪問の一環として、フランス大統領シャルル・ド・ゴールとアデナウアー首相は、ランス大聖堂で開催された厳粛な平和ミサに参列。両国間の和解に、「殉教(じゅんきょう)都市」ランスが選ばれたのだった(これに先立つ1959年10月29日、画家藤田嗣治は同じランスのサン・レミ大聖堂で洗礼を受けたが、彼もまた戦争に翻弄(ほんろう=運命をもてあそばれた)された芸術家だった)。
訪問まえアデナウアー首相は、発足する公共放送「ドイツ第2テレビ(ZDF)」初代局長にカール・ホルザマー教授を推挙し、それが実現したばかりだった。翌63年4月1日、ZDFはホルザマー局長のスピーチで放送開始。
2023年2月14日、ZDFはホームページ上で、1962 年から77年まで在職したホルザマー前局長(2007年100歳で死去)の「経歴」を改めた。「彼のナチス時代の履歴に虚偽が見つかった。『ZDF70年史』編纂のための調査によると、SA(ナチス突撃隊)の一時的なメンバーであったことを隠し、かつ、1937年から45年まで在籍したNSDAP(ナチ党)党員資格を過少申告し、すぐ39年には離党としていた」という。歴史家マルチン・ザブロー博士による調査結果も添えられている。
ザブロー博士は、当時のナチ党所属の報道関係者として「標準的な」全体主義的・反ユダヤ的言動以上のものは見当たらず、かつ、戦後のZDF初代局長としての仕事上も、過去の経歴が影響したことはなかったようだという。1960~70年代の旧西ドイツでは、そうした「大人達」が戦後社会を支配していることへの若者世代の反感から、「日本赤軍」の命名にならい「ドイツ赤軍」まで登場するのだが、「ドイツ国民に戦争責任はなく、悪いのはすべてナチスだった」という免罪符(めんざいふ=言いわけ)が、現在にいたるまで通用しているのに驚く。