【寄稿№40】アステリックスと歴代の仏大統領 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№40】アステリックスと歴代の仏大統領




    <2023.4.20 寄稿>                          寄稿者 たぬきち
    「アステリックス」(1959年~)は、ルネ・ゴシニー脚本、アルベール・ユデルゾ作画のガリア人(ユリウス・カエサル『ガリア戦記』から)をめぐる漫画シリーズで、現在にいたる。ゴシニーが1977年に亡くなってからも、ユデルゾは執筆を続けていたが、最近引退し、後継に引継がれている(実写映画もアニメもある)。
    紀元前52年、「アレシアの戦い」でカエサルに破れたガリアの英雄ヴェルキンゲトリクスがローマに連行され(のち処刑)、残されたガリア人がローマ軍に包囲されている小さな村の物語。ヴェルキンゲトリクスが「フランス最初の英雄」であることを「発見」したのは、第2帝政(1852年~)のナポレオン3世で、「アレシアの古戦場」に古代の英雄の銅像を建てるなどした。そのため、シャルル・モーラスの「アクション・フランセーズ」運動にとっても、大切な伝説だった。

    第5共和制(1958年~)初代のド・ゴール大統領時代に、このシリーズがスタートしたため、小さなアステリックスと大男のオベリックスが中心の「不屈のガリア」物語は、いたく将軍に気に入られたらしい。閣議の席で、「それでは、○○大臣のだれそれイックス君!」と、閣僚の名前の語尾に「イックス」を付けて楽しんでいたという(もっとも、イックスは「レックス」と同じで、王を意味し、漫画の登場人物にみなイックスが付くのは誤り)。
    反ド・ゴール派からは、そもそもこの漫画自体、大統領支援の政治目的で作られたのではないかと、たびたび批判された。将軍が、「私はタンタン!」と言ったのも、これらを否定するためだったのかもしれない。以後の歴代大統領についても、右派の政治家は「アステリックス」を利用したく、中道・左派はこの漫画からややうとまれているようである。

    ド・ゴールを継いだジョルジュ・ポンピドゥー大統領(1969年~)は、ウデルゾとゴシニーに、アステリックスのスイス旅行を提案(フランス・インフォ)。「アステリックス ヘルヴェティア人の国へ行く」(1971年)は、ポンピドゥーが大統領に就任した年に出版された。

    次のヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領(1974年~)そっくりさんは、財務大臣時代の1969年に出版された「アステリックスと大釜(おおがま)」で、ローマ帝国の徴税人として登場。

    フランソワ・ミッテラン大統領(1981年~)は、1987年5月、パリのソルボンヌ大学で開催された「フランスと文化の多様性」をテーマとしたシンポジウムで、「ガリア」という言葉を用いて、フランスに対するビジョンを示した:「私たちはフランス人です。われわれの祖先はガリア人で、少しローマ人、少しドイツ人、少しユダヤ人、少しイタリア人、少しスペイン人、ますますポルトガル人、少しポーランド人、そして私たちはますますアラブ人ではないだろうか..」(「マリアンヌ」誌)
    ミッテランは、この発言を通じて、多様な坩堝(るつぼ)であるフランス人の定義をユーモラスに示したのだった。

    1976年、まだパリ市長だった当時のジャック・シラク大統領(1995年~)は、アステリックス第23話「オベリックスと会社」に登場。ローマの解放奴隷エリート官僚養成校(現在の国立公務学院INSPの前身である国立行政学院ENAを暗示)卒のテクノクラートであるカイウス・ソーグレヌスとされた。抵抗やまぬガリア征服策として、「資本による堕落(だらく)」戦略をカエサルに提案。オベリックスのもとへ行き、メンヒル(巨石碑)を造るだけ相場の倍々で買い取るという。オベリックスは会社を設立して経営者に。他のガリア人と競争が起き、エジプト、ギリシャ、フェニキアからもメンヒルが届き、ローマは経済破綻寸前となって、ソーグレヌスの作戦は失敗。

    ニコラ・サルコジ大統領(2007年~)は、共和国連合(RPR)時代の1998年、アステリックスの小さな村での大きな戦いをコピーした運動用ポスターを作成させた。指摘を受け、あわててユデルゾと接触、あらためて共同制作を依頼。故ゴシニーと異なり、政治と距離を置きたいユデルゾはポスターに手を入れ、アステリックスは登場しないガリアに。(「リベラシオン」紙)
    「アステリックスはユデルゾのものでも、ガリアはそうではない」ということで、他の漫画家による「サルコジックスの冒険」(2010年)などがヒットする。小さくて活動的なアステリックスのイメージを、そのままサルコジ大統領に重ね合わせている。
    2016年の呼び選挙で、サルコジは、「フランス人になったとき、あなたの先祖はガリア人である」と発言(彼自身、父方はハンガリー系、母方はギリシャ系)。

    フランソワ・オランド大統領(2012年~)については、2014年、フランスのラジオ放送「Europe 1」で、今度はユデルゾ自身が、「フランソワ・オランドはアステリックスであり、自分について言われることをあまり気にせず、陽気にわが道をあゆみ続ける少年です。彼は非常に「アステリック」なキャラクターです」と、語った。

    2018年、デンマークでのエマニュエル・マクロン大統領(2017年~)の「変化に抵抗するガリア人」という発言が、本国で物議を醸(かも)した。前年にもルーマニアで、「フランスは改革可能な国ではありません。フランス人は改革を嫌うので、多くの人が試みて失敗しました」と語っていた。
    釈明として、「私はフランスとフランス人を愛し、不快感はなく、そのすべての要素でそれを愛しています。私はこれらの「ガリアの部族」を愛し、私たちが何であるかが好きです」と述べた。「抵抗するガリア人」は、アステリックスの影響だろうとされた。

    アステリックス第38巻「ヴェルキンゲトリクスの娘」(2019年)では、ガリアの英雄ヴェルキンゲトリクスの娘「アドレナリン」が、ド・ゴールとチャーチルの似顔絵であるイポカロリックスとモノリティックスに護衛されて、アステリックスたちの村へ逃れ、ロンディニウムを目指す(1940年6月、シャルル・ド・ゴールは、ウィンストン・チャーチルが首相になったばかりのロンドンに到着、「自由フランス」創設)。

    「アステリックス」の脚本家ルネ・ゴシニーは、掲載誌Piloteの出版人でもあり、他にも有名な西部劇漫画「ラッキー・ルーク」(ベルギーのソロ・モリス画)や、「プチ・ニコラ」(ジャン=ジャック・サンペ画)などのストーリーを執筆。ゴシニーの父方はポーランド、母方はウクライナの、いずれもユダヤ系(ユデルゾはイタリア系)で、自身は1926年パリ生まれ。青年期を米国で過ごした。
    ゴシニーの深い歴史知識、ウイットとユーモアを通り越したギャグや駄じゃれのセンスは天性のもので、フランス語での「もじり」が多用されているため、「アステリックス」の日本語訳出版が続かなかった原因ともなった。
    「ラッキー・ルーク」も、作画・脚本ともに世代交代し、現在に至っているが、ゴシニー時代ほどの切れはないと評される。「ラッキー・ルーク」のゴシニーといえば、「自分の影よりも速く(自分の影を!)撃つ男」というキャッチコピー(モリスが描いたその絵は、ベルギー地下鉄駅の壁画となっている)で十分だろう。

    「プチ・ニコラ」を描いたジャン=ジャック・サンペ(2022年8月、89歳で死去)は、家庭的にあまり恵まれない子供時代を送り、ゴシニーのそれとも合わせ、ニコラの学校生活を共同制作。1977年10月、心臓発作を起こしたゴシニーは、検査のためエアロバイクに乗っていて再発作で死亡(享年51)。
    「プチ・ニコラ」は、日本でも順調に翻訳出版が重ねられていたが、サンペは同作の継続を断念。2005年、ゴシニーの娘アンが、父の遺品から二人の未発表の「ニコラ」原稿を見つけ出版(ゴシニー&センペ『プチ・ニコラの未発表の物語』仏文)。それをもとにしたアニメ映画『プチ・ニコラ パリがくれた幸せ』が、日本でも2023年6月公開。「子供たちには再発見を、大人たちには追憶を!」(アン・ゴシニー)

    「アステリックス」をめぐり、アンドレ・マルローはルネ・ゴシニーに言った:「私は神話について書いたが、あなたのほうがはるかにましで、あなたは神話を作った」。ルネ・ゴシニー研究所

     


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