【寄稿№44】第二次大戦下、フランス銀行の金(きん) | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№44】第二次大戦下、フランス銀行の金(きん)




    <2023.5.31 寄稿>                         寄稿者 たぬきち
    2022年6月、大手格付け会社ムーディーズは、ロシア国債が「デフォルト(債務不履行)」状態とした。1918年、ロシア革命でボルシェビキ政権によるデフォルト宣言から100年。国際銀行間通信(SWIFT)からも排除され、外貨準備をルーブル防衛に利用できない。そこでロシアは、ウクライナ侵攻前から金保有高を積み増して対抗。

    デビゼンシュッツ・コマンド(通貨確保・特命部隊): ドイツが第一次大戦の敗北から回復しないまま、アドルフ・ヒトラーが権力を握る。だが、ドイツの金準備(きん・じゅんび)は空(から)で、通貨は無価値。ドイツ軍は、各国の金を略奪する。戦利品は、ベルリンのライヒス・バンク(ドイツ帝国銀行)の金庫に保管されたが、占領したベルギーとオランダの国立銀行にも送られ、中立国からの武器購入のため、主にスイスに送金された。

    ブレストの金塊: 「大戦中、巴里の政府が都落ちするに際し、銀行の金かルーヴルの繪か、どちらを先に持ち出さうかと、議論されたのは有名な話」。瀧澤敬一郎『フランス通信』より
    1940年5月13日、ラムルー財務大臣は、フランス銀行の金を国外へ避難させると指示。フランス艦隊がブルターニュ半島ブレスト軍港から運んだ金は、カナダのハリファックス経由でニューヨークに。
    6月12日、750トンの金(16,200個の木箱と袋)が、ブレスト港に近いポルジック要塞に残る。6月15日、ド・ゴール将軍はブレストを出港しイギリスへ。
    6月17日正午、ペタン元帥は、ラジオでフランスの休戦要請を発表。フランス銀行の金はドイツに提供しようという。海軍参謀総長のダルラン提督は反対、無線で海軍に情況を知らせ、移送を続行。同日、第三帝国の軍隊がパリのフランス銀行本部に姿を現す。しかし、貴重なインゴットは消えていた。
    6月18日午後6時30分、最後の貨物船エル・マンスール号が、フランス銀行の金貨を乗せダカールに向け出航。ドイツ軍は翌朝午前10時ブレスト到着。
    6月21日、金を積んだ巡洋艦エミール・ベルタンは、中米アンティール諸島マルティニクに向かう。マルティニク島の金は、デサイクス砦の陸軍とフランス銀行職員エドゥアール・ド・カトウによって、大戦の残りの期間守られた。
    したがって、フランス銀行の金はニューヨーク(1200トン)、マルティニク(250トン)、ダカール(ベルギーとポーランドの金を含む1300トン)に分散された。6年後、395kgが行方不明。50kgの1箱が積み込み時に水没。

    ナチスの黄金: 1945年2月3日、連合軍の爆撃でベルリンは廃墟と化し、ライヒス・バンクも損壊。残った金は、フランス捕虜の手でトラックに積まれ、南ドイツの岩塩鉱山があるチューリンゲン州メルケルスに運ばれた。1945年4月、米陸軍パットン将軍の第3軍に発見され、連合軍最高司令官アイゼンハワー自身が鉱道に入った。
    ミュンヘン南方バイエルン・アルプスのヴァルヒェン湖近くにも、ナチスの金の隠し場所があった。フリードリヒ・ラウフSS中佐は、米軍臨時通訳ヘルムート・シュライバーの仲介で、これを米軍に提供し、自己の安全をはかる。
    今は通訳のシュライバーは、1920年代後半から第三帝国の終わりまで、バイエルン映画の製作責任者だった。趣味がこうじてドイツ最高のマジシャンでもあり、ヒトラーの山荘にも招かれ手技を披露。
    1945年6月、ラウフとシュライバーは、米軍のロバート・アルガイヤー少佐に対して、金塊と外国紙幣の一部が「パルチザン(抵抗勢力)」に持ち去られていたと説明。少佐は納得し、ラウフには「米市民権」を約束、シュライバーには「非ナチ証明書」を与えた。
    シュライバーは、戦後「カラナグ」の名で舞台魔術師として有名になった。その豪華なショーに、資金をどう工面したかは知られていない。彼がナチスの金塊とともに入手した外国紙幣は、のちにツアーで訪れることになる国々の通貨である。
    1950年代、カラナグ一行50名は、イギリス、スウェーデン、デンマーク、スペイン、南アフリカ、ブラジル、アメリカ、トルコ、オーストリア、スイス、東ドイツを廻る。大規模なショーを続ける世界唯一のイリュージョニストだった。だが、1960年代には、テレビのバラエティ番組への関心が薄れ、「カラナグ」人気も衰える。
    1963年1月23日、彼は60歳の誕生日を大々的に祝ったが、同年のクリスマスイブに心不全で亡くなった。華麗な舞台でアシスタントをつとめ、その後離婚した妻グロリアは、生涯「カラナグの金」を探し続けたが、呪文とともにマジシャンは消え、宝箱は現れなかった。

    消えた家宝: 2017年2月23日、ブレストの東、ナント郊外オルヴォーで、仲のよい三姉妹の二人が、2月16日以来、次女ブリジット・トロデック(49)と連絡がとれないばかりか、夫パスカル(49)、長男セバスチャン(21)、長女シャルロット(18)も同じと、警察へ届け出た。
    室内に血痕があり、捜査開始。3月5日、パスカルの義弟ユベール・カウイッサン(46)は、現場でDNAが見つかった後、内縁の妻でパスカルの妹リディ・トロデック(47)とともに拘束された。彼は自白し、リディも共犯として起訴され、それぞれ30年の刑と、懲役3年(うち1年は執行猶予)が言い渡された。
    2月16日から17日の夜、ユベールは、バールで四人を次々に撲殺し、翌日、リディと立ち戻って清掃した。遺体は、所有する農場へ車で運び、切断・粉砕・焼却して散布。一部しか発見できなかった。
    ユベールが語った犯行動機に、世間は唖然。「義兄パスカルが、『ブレストの金(きん)』を奪ったから!」 2014年6月、義母のルネ(75)は、亡夫ピエールが見つけた「ブレストの金」を、息子パスカルが盗んだと非難。左官の夫が生前、ブレスト旧市街の古家で壁の中から発見し、今の住居の屋根裏(ガレージとも)に保管してあると言ったから、夫亡きあと調べてみると無い。パスカル一家とは絶縁すると言い渡した。パスカルは否定したが、妹リディがユベールに告げ、金のことが二人の妄執(もうしゅう=誤った信じ込み)となる。
    戦後、海軍はブレスト港の底で木箱を探したが発見できなかった。「モナコ、アンドラ、あるいはスイスの銀行に、パスカルが預けたはず」というルネ自身、現物は目にしていない。これらの金融機関にも照会がなされたが、見つかっていない。
    2017年3月、事件が大々的に報道されると、60代の女性が、『ル・テレグラム』紙に連絡し、「これは、私の父が語ってくれた物語です」と言った。
    「1940年、父は22歳、ブレストで叔母と暮らしており、金の箱が海底に落ちた噂はすぐ伝わりました。その夜、彼は3人の友人を伴って、船が出払い無人の港へ行き、1時間も経たないうちに、箱を引き上げました」。箱は、叔母の庭の木材の下に隠したという。だが、1945年にフランス銀行が行方不明の金塊を調査していると知り、父親と友人たちはパニック。「箱の中身が、フランス銀行の番号付きインゴットだったので、彼らは、他の人が見つけてくれることを願って、ある夜、旧市街の空き家に持ち込んだのです」。

    オランダを掘る: 2023年1月、ハーグの国立公文書館が75年を経て公開した「第2次大戦文書」中に、ライン川鉄橋をめぐって戦ったアーネム(アルンヘム)に近いヘルダーラント州オメレン村の手書き地図があった。1944年8月、アーネムの銀行を襲ったドイツ部隊が、金庫から略奪した金や宝石類を入れた木箱4つを埋めた場所を、3本の並木とX印で示してある。1947年にも、ドイツ軍の落下傘兵だったバーデンバーデン出身の家具職人が、オランダ当局に協力したが見つからず。今回は、国外からも素人ハンターが駆けつけ、金属探知機とパワーショベルで一帯を荒らす騒ぎとなった。自治体は、専門家に調査を委ねたものの、5月1日、成果なく終了。

    「触れるものすべて金に変えると、クモの巣へ手招き」(「007 ゴールドフィンガー」より)


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