<2023.6.23寄稿> 寄稿者 たぬきち
スイスのホロコースト犠牲者 2023 年4月、スイス連邦政府と議会は、第二次大戦中のユダヤ系スイス人犠牲者を追悼する記念碑を、初めて首都ベルンに建てると発表した。
フランスの関与 大戦前の1934年、ユダヤ系スイス人ロチルド(ロートシルト)一家の父親が亡くなり、未亡人セルマと10代の長女ユラと次男フレドリクは、スイスの士官学校生である長男ジャンを残し、チューリヒを離れフランス西部アンジェに移住。
1942年7月16日から17日にかけて、仏警察は、ナチスの強制収容所へ追放目的で全国数千人のユダヤ人を検挙。パリのスイス総領事館が介入したのは5日後のことで、すでに手遅れだった。3人は、他の839人と家畜用貨車に詰め込まれ、アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所(ポーランド)に移送され、そこで死亡。
米国を目指すユダヤ難民 他のヨーロッパ諸国からの難民は、2波に分かれてフランスに到着した。第1波は1938年から39年にかけて、主にドイツとオーストリアから。第2波は、1940年5月ドイツ軍侵攻後のオランダ・ベルギーからが中心。
フランス客船「フランドル」号の悲運 1939年5月、「フランドル」号はドイツ系ユダヤ移民を乗せて、キューバのハバナに向け、母港サンナゼールを出発。ハバナで米国入りの順番を待つつもりだったが、キューバは突然移民規則を厳格化。乗客のうち下船できない96人はサンナゼールに引き返し、フランス南西部各地に。
ナントに近い内陸ショレの中心部トゥルポー公園(ナチスの地方本部が置かれていた)の外縁広場に、同じ1942年7月16日から17日、この街からアウシュヴィッツ送りとなったユダヤ人を追悼する記念銘板がある。
「フランドル」号で戻った乗客から、ジョルジュ・ボーム、妻マルゴ、息子ピエール・ボーム(16歳半)。アルフレド・レーヴ、妻イルゼ。夫婦の娘アン・レーヴ(5歳半)の名がそこには無いが、とっさに知人へ預けたものの、後日摘発され同じ運命をたどった。
両親とともに連行されたピエールの名前と写真が、母校のリセ(高等学校)に今も掲示されている。
ドイツ船「セントルイス」号も同じ運命 1939年5月13日、ハンブルクからキューバのハバナに向け出航。937人の乗客のほぼ全員が、「水晶の夜」(1938年11月9日から10日)を経て、出国をはかるユダヤ人だった。
しかし、キューバの「通過ビザ」を所持していた乗客らは、ラレド・ブル大統領が出航1週間前に、上陸許可証をすべて無効にする法令を発していたことを知らなかった。
5月27日ハバナ港に到着したとき、キューバ政府は28人の乗客のみ入国を認め、残りの乗客の入国を拒否し、下船も許可しなかった。6月2日、同船はキューバ海域からの退去を命じられた。
マイアミの灯が見えるほどフロリダに近づいたものの、米国政府が拒否したため、6月6日ヨーロッパに戻る。しかし、ユダヤ人団体が各国政府と交渉、ドイツではなく、英仏・オランダ、ベルギーに受け入れられた。大陸の620人のうち、278人がホロコーストを生き延びた。
『ホロコースト百科事典』に、体験者の聴き取りがある:
ゲルダ・ブラッハマン ゲルダは、ユダヤ人の両親とブレスラウ(当時ドイツ領)に住んでいた。彼女の父は、大型機械設備や建築資材を扱う会社の営業職だった。
「キューバに着いた私たちは、ビザが無効だと告げられました。入国を拒否され、ヨーロッパに引き返すしかありませんでした。ベルギーのアントワープで上陸し、フランス、そしてスイスに」。「農婦に変装した母と私は、干し草を積んだ荷車で、スイス国境にある農家に向かい、スイスの国境警備隊に捕らえられました」。
ゲルダはスイスの難民キャンプで2年間抑留され、戦争が終わるまでベルンのブラウス製造工場で働き、1949年に米国へ。戦争が終わった後、2人は父親が移送途中で死亡したと聞かされた。
リアン・ライフ リアンの両親はポーランド生まれのユダヤ人で、ウィーンで結婚し、ドナウ川のほとりの中流階級地区にある14部屋のマンションに住んでいた。父親は歯科医で、自宅で開業していた。
「1938年、ドイツがオーストリアを併合した後、父は自殺体で発見されました。1939年5月、戦争勃発の4か月前に、母はキューバ行きの「セントルイス」号を予約。大西洋往復後、母、兄、私は、フランスのブローニュ・シュル・メールで船を下り、そこから南にあるルダンに送られました。1940年、ドイツがフランスに侵攻。私達はリモージュ行きの汽車に乗りました。ここはまだドイツ軍に占領されていなかったのです」。1941年、ポルトガル経由でニューヨークに。
(フェイ・ダナウェイ、オーソン・ウェルズほか名優揃いのハリウッド映画化「Voyage of the Damned(邦題 さすらいの航海)」1976年)
ダイヤモンド産業の育成 マリオン・フィンケルスは、ハンブルク近郊で父ジョンと母ローズ、妹エイダと暮らしていた。家族は小さな店を経営。1938年秋「水晶の夜」直後、ドイツを離れベルギーに向かった。次の3年間、進撃するドイツ軍から逃げて西ヨーロッパを南下。ドイツ軍が侵攻した1940年5月、ベルギーにいた。ジョンは、家畜用貨車で南仏マルセイユ郊外の「レ・ミル」と呼ばれる警備の緩い収容所へ連行された。
1941年、ジョンはなんとかローズに連絡をとり、マルセイユに来る方法を見つけるよう懇願。再会後、キューバへのビザを入手。一家はマルセイユからスペインを経由してポルトガルに渡ることができ、1941年11月、ポルトガル海運コンパニア・コロニアルの客船「コロニアル」号に乗った。
ドイツのUボートは、航海中いつでも魚雷を発射する可能性があったが、船はポルトガルの中立国旗を掲げて航行していた。
ハバナに入る 1940年大統領に就任したフルヘンシオ・バチスタは、方針を変えユダヤ難民の受け入れを許可するとした。入国した難民は全員、キューバは旅の通過点にすぎないと信じていた。
1941年12月、日本が真珠湾を攻撃したニュースは難民たちを驚かせたが、同時に安堵ももたらした。アメリカは参戦し、ドイツおよび枢軸国と戦うことになる。マリオンは15歳、現地の学校を終え、フルタイムの労働者としてダイヤモンド研磨業界に入り、家計を助けた。
キューバのダイヤモンド産業 一部の難民は、ベルギーのアントワープ出身で、キューバ政府に研磨産業を創設するよう説得。研磨機は、ブラジルから持ち込まれ、コピーされた。キューバ政府にとっては、1933年の労働国有化法(50パーセント法)により、労働力の半分がキューバ人(半分が難民)である点に魅力があった。
ダイヤモンド産業は、ユダヤ難民の命の恩人だった。ほとんどの原石は南アフリカ産で、厳格な規制の下でニューヨークからキューバに輸出された。研磨後、ブローカーが米国での販売用に再輸出。原石流通の中心がロンドンにあったため、英国政府も協力。
マリオンと父親は、ダイヤモンド研磨業で働き、生計を立てた。1946年1月、ついに待望のアメリカのビザが発給された。マリオンは19歳、高等教育を受けていない一方で、一生分の経験を積んでいた。
ダイヤモンド産業の終焉 戦後、業界で働いていたユダヤ人の多くは、ベルギーに戻るかイスラエルに移住。ニューヨークに行って働き続けた者も。
キューバ政府は、ハバナでダイヤモンド事業を継続したい期待を込めて、英国に代表団を派遣。ロンドンのダイヤモンド・シンジケートに、原石の割り当て継続を交渉。要求は拒否され、ハバナのダイヤモンド産業は短命に終わる。
1959年、フィデル・カストロによる革命で、バチスタ政権は倒れた。キューバでダイヤモンド産業が栄えていたら、歴史は違っていただろうか。
「愛は消えても、輝き続ける」(007 ダイヤモンドは永遠に)