【寄稿№52】パリにて、フランス語で書く「サロメ」 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№52】パリにて、フランス語で書く「サロメ」





    <2023.8.17寄稿>                           寄稿者 たぬきち
    19世紀末イギリスの作家オスカー・ワイルドは、アイルランドのダブリン生まれ、オックスフォード大学でフランス語を学んだ。新婚旅行を含め何度もパリを訪れ、アンドレ・ジッドら文人達と交流。ムーランルージュでは、画家ロートレックとも親しくなった。

    ユダヤ系の高級娼婦の母を持ち、みずからも、さる国の皇太子の子供を産んだフランスの大女優サラ・ベルナールを主役に、戯曲『サロメ』をフランス語で執筆。フローベール作の小説『ヘロディアス(エロディア)』にヒントを得て、「小ヘロデ王」(ユダヤの「大ヘロデ王」の次男)の妻エロディアでなく、その連れ子サロメと予言者ヨハネ(ヨカナーン)の舞台劇とする。パリの友人達が、フランス語の手直しに協力した。

    「(サロメは、七つのヴェールを使った踊りを踊る。)
    ヘロデ  おお! 素晴らしい、素晴らしいぞ! ・・・こっちへ来い、サロメ! さあ、おいで、褒美をやろう。・・・お前の欲しているものは、何でもやる。さあ、申してみよ、何が欲しい? 
    サロメ  (跪いて) わたし、今すぐこの場に持ってきて欲しいの、銀の大皿に載せて、・・・・・・
    ヘロデ  (笑って) 銀の大皿に、だと? 容易いこと、銀の大皿に載せてだな、よし。かわいいことを言う、ええ、そう思わぬか? それで、銀の大皿に載せて、何を運んできてもらいたいのだ、わしの愛おしい、美しいサロメよ、あらゆるユダヤの娘たちの中でも、最も美しいお前の欲しいものとは?」
    ワイルド『サロメ』平野啓一郎 訳(光文社古典新訳文庫)

    初演はロンドンでと、その英訳版をイギリスの検閲局に提出したところ、聖書物語の禁令に触れ上演禁止。怒りのあまり、「私はアイルランド人だ!」とか、「文化的なフランスに帰化する!」と言ったりして、余計に反感を買う。

    ワイルドの同性愛は、結婚して二人の子供をもうけた後のことだが、派手な騒動で、刑事罰にも気づかないふりをするイギリス社会も、ついに無視できなくなった。恋人の青年貴族の父親と訴訟合戦を演じて敗れ、投獄の憂き目に。
    誠実な友人ロートレックは、わざわざロンドンへ赴き、収監される直前のワイルドの肖像画を描いた。1896年『サロメ』パリ初演の知らせは、獄中で聞いた。

    2年の服役後、ワイルドはパリへ渡る。ユダヤ系のドレフュス大尉が、軍事機密を手紙でドイツ側へ洩らした罪で、悪魔島へ送られていた。1898年1月、再審を求めるゾラの「ジャキューズ(われ告発す)」が、オーロラ紙に掲載される。
    ワイルドは、反ユダヤ(反ドレフュス派)のジャーナリストを通じて、偽手紙の真犯人エステラジー少佐を紹介され、親しくなる。「善人よりも悪人がよい。刑務所では、そんなのばかりに囲まれていた」と言うのだった。
    1898年9月、ひげを剃り、ロンドンへ逃亡したエステラジーの「告白」が、英オブザーバー紙に。99年7月、仏ル・マタン紙に。ワイルドが取り持ったとも。ワイルドは、中耳炎が悪化して脳に達し、1900年11月30日、パリの安宿で死去、享年46。

    リヒャルト・シュトラウスは、哲学者ニーチェの著作を音楽化した前衛的な交響曲『ツァラトゥストラ』で脚光を浴びているドイツの作曲家。この曲は、「2001年 宇宙の旅」の映画の開幕シーンに使われている。対話するAIコンピュータHallに、現実はいま追いついたようだ。

    シュトラウスは、『サロメ』の舞台を鑑賞後、ドイツ語版オペラ作曲に取りかかる。1905年12月のドレスデン初演は大成功を収め、以後、各地で上演される(1977年冬、ハンブルク州立歌劇場で私も鑑賞)。
    仏語圏向けにと、次にフランス語バージョンで楽譜を改めた。こちらは長く忘れられていたが、1990年、ケント・ナガノ指揮リヨン・オペラ座管弦楽団が再演した。

    1933年、ヒトラーが政権の座に就くと、総統やゲッベルス宣伝相に好まれ、「帝国音楽院」総裁に就任。1936年のベルリン・オリンピック賛歌を作曲し指揮した。
    だが、ユダヤ系の作家シュテファン・ツヴァイク原作のオペラ『無口な女』制作をめぐり、ゲッベルスの不興を買い、総裁を辞任。以後は、オーストリアで「ザルツブルグ音楽祭」の創設と運営に力を注いだ。

    シュトラウスは親ナチスか反ナチスか、第二次大戦後の「非ナチ化」の嵐の中で、その評価が別れた。それとも、芸術至上主義の政治音痴だったか。
    彼の息子はユダヤ人女性と結婚しており、その子供二人、つまりシュトラウスの孫達も(母系基準で)ユダヤ人だった。懸命に家族を守る中での妥協だったのか。

    だが嫁のアリーチェの実家一族は、事前に逃亡していた母と祖母を除き、26名全員がアウシュヴィッツ強制収容所で死亡している。
    シュトラウスは、ウィーンからドレスデンに向かう途中、車をテレジエンシュタット(チェコ)の中継収容所へ向かわせ、門衛所で、「私はリヒャルト・シュトラウス、マダム・ノイマン(アリーチェの曾祖母)にお目にかかりたい」と申告した。ドイツ兵達は、この「頭のおかしい老人」を車に押し戻した。

    1945年4月、アルプスのリゾート地ガルミッシュ=パルテンキルヒェンのシュトラウスの山荘へ、これを連合軍の地方司令部として接収しようと、米陸軍の中尉が訪れた。玄関に現れた老人が、「私は、作曲家のリヒャルト・シュトラウスです」と言った。元ピアニストの中尉は感激し、接収はないことを告げ、代わりに部下の軍曹をシュトラウスに紹介した。

    軍曹は、プロのオーボエ奏者だった。「オーボエ協奏曲を作曲するつもりはありませんか?」と、シュトラウスに尋ねた。帰国して楽団員に戻った彼のもとへ、シュトラウス作曲のオーボエ協奏曲の楽譜と、演奏権の証明書が届いた。

    これらのエピソードは、シュトラウスの「芸術至上主義」ゆえの無実を証明しているのだろうか。息子夫婦の助命には、オーストリアの「ガウライター(ナチス大管区指導者)」の手を直接に煩わせており、第三帝国における特権階級ではあった。

    19世紀後半の西欧各国における反ユダヤ主義の流行は、ロシア帝国とその周辺で「ポグロム(ユダヤ人迫害)」の嵐が吹き荒れたことが影響している。国外脱出した「アシュケナージ系ユダヤ人」が、大量難民となって押し寄せた。
    ドイツでは、「アーリア人とセム族」の人種対立とされ、フランスでは、大革命(フランス革命)でユダヤ人まで「市民(シトワイヤン)」としたのが原因だという。

    ジャーナリストのファビアン・ヴォルフ(1989年、壁崩壊直前の東ベルリン生まれ)は、ドイツの主要メディアで、「私は、ドイツのユダヤ人です」との書き出しで論陣を張ってきた「マスコミの寵児(ちょうじ)」。2023年7月16日付けZEIT ONLINEで、「自分はユダヤ人ではない」と告白した。
    2010年に亡くなった母親が言ったことを信じていたのだという。「祖母がフランスから持ち帰ったという小さな花瓶を、『ホロコーストの花瓶』と言ったことがある」。ヴォルフ自身が申請したライプチヒ州立公文書館のファイルには、ナチスドイツからフランスに逃げたはずの祖母が、1943年にドイツで結婚した婚姻届があった。また、曽祖母の出生証明書には、曽祖母がユダヤ人の出生名を持たず、福音ルター派の洗礼を受けたとされていた。

    現代ドイツ社会では、イスラエルに対する苦言は禁物なため、イスラエルを厳しく批判してくれる「ドイツのユダヤ人」は、どのマスコミにも重宝されたのだった。そして今、ヴォルフは、「コスチューム・ユダヤ人」(えせユダヤ)と、全方向から非難を浴びている。
    米国のユダヤ系哲学者スーザン・ニーマンは、「イスラエルの急進的な右傾化について、民主主義精神を持つ人なら誰でも、この国家を批判するでしょう。ヴォルフのイスラエル批判が何の価値もないというのは、馬鹿げています」という。「この話に怒っているのは、むしろドイツ人だと思います」。「イスラエルを批判することが許されるのはユダヤ人だけなのか、自問する必要があります」。
    2023年8月7日、フランスのダルマナン内務相は、反ユダヤ的主張を理由に、極右の「カトリック原理主義」政治団体キウイタス(Civitas)に対し、解散命令手続に着手したと表明。キウイタス(市民政治共同体)は、「1791年のユダヤ人の帰化が、移民への扉を開いた」と主張し、1905年制定の「政教分離法」による「政教分離(ライシテ)」原則を廃止せよという。

    幸福の王子「でも、キスはくちびるにしておくれ。私もあなたを愛しているんだ」 ワイルド・結城 浩 訳


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