<2024.8.19寄稿>
寄稿者 たぬきち
パリ・オリンピックの閉会式、パリ市長アンヌ・イダルゴがロサンゼルス市長カレン・バスにオリンピック旗を手渡す。パリでは、総合馬術の団体で、日本が銅メダルを獲得。1932年ロサンゼルス大会で西竹一中尉(のち大佐:硫黄島で戦死)が金メダルに輝いて以来となった(Los1984があるので、Los2028は3度目)。
だがロスは4年後なので、パリに行った人も行かない人も、今は、パリの姉妹都市フィラデルフィアに目を向けよう。米国ペンシルバニア州の州都フィラデルフィア市は、首都がワシントンに移される前の10年間、ここが合衆国の首都だった。独立後の連邦議会がフィラデルフィアに置かれ、合衆国憲法もここで起草された(「自由の鐘」館が、観光名所)。
イギリスからの独立のための戦いの間、フランスはアメリカに多大な援助をした。
先王ルイ15世がイギリスとの戦い(7年戦争)に敗れ、新大陸の植民地をほぼ失い、経済苦境に陥ったため、ルイ16世は挽回策として独立戦争に介入した。その重い負担が「バスティーユ襲撃」を招く。
1789年7月14日朝、牢獄として使われていたバスティーユ要塞を民衆が襲撃し、夕方には占拠。囚人は解放され、この「旧制度(アンシャン・レジーム)の象徴」解体が決まった。
いち早く駆けつけたさる建築業者が請け負い、翌15日朝には、8千人の労働者を集め作業を始めている。残った石の山は、他の業者に建築資材として販売し、巨利を得た。
フィラデルフィア市のオークションハウス「フリーマンズ&ハインドマン」の2024年9月オークションは、フランス革命の始まりとバスティーユ陥落のわずか数週間後に描かれたインクウォッシュ(水彩・水墨)画『バスティーユの破壊』。
同市を流れるスクールキル川沿いの、30th Street Station(30丁目駅)至近の同ハウスで、8月いっぱい目にすることができる。アメリカ独立戦争時のフランス軍司令官ラファイエット侯爵から、初代大統領ジョージ・ワシントンに贈られたこの絵は、大統領官邸に飾られ、退任後も彼の自宅玄関に飾られていた。
パリ・オリンピックの開会式、セーヌ川船上での各国選手団入場行進中、処刑された王妃マリー・アントワネットの首が、シテ島の旧コンシェルジュリ監獄の窓で歌うシーンがある。歌は、革命時に流行した『サ・イラ(うまく行くor大丈夫!)』。
歌詞は時代につれて変わるが、元々は、パリで軍事援助獲得に奔走し、独立後の初代大使となったベンジャミン・フランクリンの片言のフランス語。独立戦争の状況を尋ねられ、「万事うまく行くよ、ラファイエットがいるから大丈夫!」と歌う。
これを革命時フランスの民衆が、「(フランス革命も)うまく行くよ、賢いラファイエットがいる!」と歌った。だが革命が過激化し、ラファイエットは離反。
セーヌ川の各国選手団は、トロカデロ広場そばのイエナ橋で上陸したが、舟がもう少し進めば「白鳥の島」があり、先端に「自由の女神」像がある。
ニューヨークの「自由の女神」と同じ作者の手になる4分の1サイズの女神像だ。
そして陸上、トロカデロ広場からやや引き返すと、ジョージ・ワシントンの銅像が。
さらに歩を進めれば、ラファイエット侯爵像もある。
パリの像は、アメリカ側からの感謝のしるし。
フランス革命後、ナポレオンの百日天下も倒れると、兄の元ナポリ王にしてスペイン王ジョゼフ・ボナパルトは、ラファイエットを通じ、米国行きを弟に説かせたが失敗。
セントヘレナ島に送られる弟を残し、自分は米国へ亡命、フィラデルフィアに居を構えた。
つまり、フィラデルフィアは、建国時から「パリ並み」。
現在の市庁舎から美術館(ルーブルのつもり)までの大通り(ベンジャミン・フランクリン・パークウェイ)をシャンゼリゼーに見立て、市庁舎は、屋上の時計塔とその先端の「州祖(ペンシルバニアは、「ペンの森」の意味)」ウィリアム・ペンの銅像は別にして、パリの市庁舎そっくりにデザインされた。
フィラデルフィア旧市街の南東、スクールキル川とデラウエア川が河口で合流するあたりには、かつて海軍基地、海軍工廠、そして民間の造船所があり、アメリカ独立前から軍艦建造の本拠地だった。街は、戦時には繁栄、平和が到来すれば不況を繰返したが、1995年以降、造船を廃し、ビジネスセンターに生まれ変わった。
労働者街が空き家になり、そこへ薬物常用者が住み着いて、ケンジントン・ストリート界隈は「ゾンビタウン!」の汚名を獲得。市と市警当局による、そうした街区の浄化が進められている。
フィラデルフィアには、ロダン美術館もあれば、金色のジャンヌダルク像もある。
銅像の街と呼ばれ、ハリウッドスターのシルベスタ・スタローンが演じた映画「ロッキー」(1976年)の主人公像だってある。
原作・主演は、イタリア系のスタローンだが、フィラデルフィアで暮らしたことがあり、肉屋で働きながら、吊した肉を叩いてトレーニングを続ける主人公には、モデル(の一人)となった実在の人物がいる。しかも、100年前のパリ・オリンピックの金メダリスト!
のちに「ジャック・シニア」と呼ばれるジョン・ブレンダン・ケリーは、アイリッシュ系移民の息子で、10人兄弟姉妹の男子5人の末っ子。初等教育を終えると、昼間はレンガ積み作業、夕方になると、市内を流れるスクールキル川でボートを漕いだ。
身長188センチ、体重80キロの体格を生かして、レンガ積み工として働く一方で、趣味は漕艇(そうてい=一人乗りシングルスカルの選手)とボクシング(ヘビー級世界チャンピオンとなるジャック・デンプシーとは、「ふたりジャック」で親友)。
川床には、無尽蔵の粘土層があり、レンガの原料はほぼ無料のため、街は民家も工場もレンガ造りだった。ジャックは、兄達の援助を得て、早くにレンガ積み工事会社を設立。経営も、順調に進展した。
第一次大戦が勃発し、志願兵としてフランスに。
フィラデルフィア出身者による遠征旅団は、「第二次マルヌ会戦」等で多数の犠牲を出したが、無事帰国。既に20代の終わりが近かったものの、シングルスカル全米一の実績で、ロンドンのテムズ川で1919年に開催された英国伝統の「ヘンリー・レガッタ」にエントリー申請。
だが、肉体労働の経験が「紳士のスポーツ」のアマチュア基準に合わないとして、出場を拒否された。
第一次大戦の頃には、悲惨な「イースター蜂起(1916年)」の失敗等、イギリスからのアイルランド独立(1937年)運動の厳しい状況下でもあった。
それならと、1920年ベルギーのブリュッセルで開催されたオリンピックに出場し、ヘンリー・レガッタ優勝者を破り金メダル。1時間後にダブルスカル決勝にも出場して優勝。続いて1924年のパリ・オリンピックでも、ダブルスカルで金メダル。
漕艇クラブハウスが並ぶ手前のスクールキル川畔には、彼の漕艇像が立っている。
また、街の中心部から北へ、クラブハウスのそばを通る道路は「ジャック・ドライブ」と命名されているが、この道路名のジャックは、「ジャック・ジュニア」。「シニア」は、1924年のパリ・オリンピックで引退する前に、10年越しの交際を経て、ドイツ系のマーガレット・キャサリン・メイジャーと結婚し、1男3女をもうけた。
出会いから結婚までが長かったのは、第一次大戦下の(とりわけアイリッシュ系による)反ドイツ感情の風潮によったのだろう。
「ジュニア」は第二次大戦後、2度の「ヘンリー・レガッタ」優勝、4回出場したオリンピックでは、1956年のメルボルンで銅メダル(いずれも、シングルスカル)。
明らかに「ヘンリー・レガッタ」に焦点が当てられており、オリンピックはそうでもないというのは、「シニア」が自分の怨念を晴らすため息子を利用したと、批判する向きもある。
「ジュニア」の母マーガレットは、ドイツの地方王族の末裔でプロテスタント。結婚のため、カトリックに改宗した。テンプル大で学び、ペンシルバニア大で女子体操教育を指導し、雑誌の表紙モデルでもあった。次女のグレース・パトリシアは女優志願というので、「シニア」を嘆かせた。夭折(ようせつ=早死に)した子の名を新生児につけるアイリッシュの伝統で、自分の「ジョン」は長兄の、「グレース」は妹のそれとあって、思い入れも深かった。
実業家として成功した「シニア」は、1960年に70歳で亡くなる前、遺書をしたため、その末尾に記した:「カーテンの向こうは、緑したたるアイルランドの牧草地よりも素晴らしい所だそうで、わくわくしている」1982年9月14日、モナコ公妃グレース・ケリーは、自動車事故で死去(52歳)