【寄稿№76】ムーラン・ルージュの「フレンチ・カンカン」 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№76】ムーラン・ルージュの「フレンチ・カンカン」




    <2024.12.4寄稿>                                            
    寄稿者 たぬきち
    2024年5月25日未明、モンマルトルの丘のふもとに位置する有名キャバレー「ムーラン・ルージュ」のシンボル「赤い風車」の羽根が、突然落下した。
    木とアルミ製で、赤色の電飾を付けた羽根は、ホール軒先の屋号「ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)」アルファベット文字のムー(MとOとU)を叩き落とし、前方道路上へころがった。
    終演後の夜明け前とあって、通行人もなく、負傷者はない。
    7月末のオリンピック開催、10月に創業135年を記念するとあって、7月5日、めでたく復旧、関係者を安心させた。
    ひと月おきに点検しているということで、どうも点検が原因の事故であったらしい。

    フランスの新聞では、風車の塔屋だけの写真が報道されたが、羽根なしの姿は、往年のフランス映画でも見ることができる。
    ジャン・ルノワール(画家ルノワールの次男)監督・ジャン・ギャバン主演『フレンチ・カンカン』(1956年)がそれで、こちらは新築(改築かも)中の、塔屋に羽根を取りつける前の映像である。
    もっとも、1919年の火災で、当時の建物はいったん焼失した。

    1907~8年(明治40~41年)、横浜正金銀行リヨン支店で勤務するための往還、パリを訪れた永井荷風(文化勲章受章者、作家)は、当時の建物につき、
    「もう瓦斯燈(がすとう)がついていたけれど、昼間見ると、夜半(よなか)には馬車で埋(うま)ってしまう盛場の大路(おおじ)も、一条の汚い場末の街道に過ぎない。有名な美女乱舞の劇場ムウランルウジュの風車小屋(かざぐるまごや)は壊(こわ)れた物置場みたように思われ、見世物「地獄極楽」の入口の彫刻なぞは、二目と見られぬ程きたならしい」(永井荷風『ふらんす物語』新潮文庫)。

    「新帰朝者(洋行帰り)」として、フランス賛美が過ぎるように批判もされた荷風が、珍しく辛辣な指摘をしている。
    荷風は見た時間帯よりも早い時間だったが、私も、そんなに違わない印象を持った。
    モンマルトルの丘の麓(ふもと)の一帯は歓楽街で、昼間見ても仕方がない。
    そこで、丘の上にそびえる白亜のサクレ・クール聖堂を目指す。
    ふもとと聖堂前を結ぶフニクレール(ケーブルカー・斜行エレベーター)には乗らず、徒歩で石段を登る。
    聖堂前に立って振り返ると、ここから眼下に広がるパリを一望できる。
    雄大な景色に満足し、聖堂には立ち入らなかった。

    ムーラン・ルージュ開店と同時期に発行された小冊子『パリの外国人のための、唯一かつ真実、秘密のガイド』(フランス国立図書館所蔵)の表紙絵では、背景に描かれているモンマルトルの丘は、まるで針山みたいで、たくさんの風車が突き刺さっている。
    丘を吹き抜ける風を利用し、穀物や染料から火薬まで、各種の粉末を製造する働きもので、30基もあった。
    オーギュスト・ルノワールの絵画『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』の風車は現存し、レストランになっている。

    1889年開業の「ムーラン・ルージュ」で、最も有名なカンカン・ダンサーの「ラ・グリュー(直訳すれば欲ばり女だが、出された酒を飲み干す習慣からとも。本人は、いつもお腹が空いていたという=食いしん坊)」ことルイーズ・ウェーベルと、ジェーン・アヴリルの二人は、画家トゥールーズ・ロートレックによって不朽の名声を得た。
    背が高く肉づきのよいラ・グリューと、細身のアヴリル。

    動物好きのルイーズは、引退後、私設動物園を経営していたこともある(「プチ・ジュルナル」挿絵増補版1904年1月24日号の表紙絵には、彼女と夫が、見世物中に檻の中で豹に襲われる恐ろしいアクシデントが、裏表紙には、日露戦争開戦の日本軍が描かれている)。
    晩年は、ムーラン・ルージュの前で、タバコやキャンデーを売ったりも。
    『フレンチ・カンカン』の映画の中で、ジャン・ギャバン演じる経営主が、路上の老女に心付けを渡すシーンがある。
    踊り子志願の若い娘ニニが、「知り合い?」と尋ねると、「カンカンの女王ミミ・プルネルさ」と、彼が答える。
    つまり、劇中、ムーラン・ルージュで、カンカンのトップ・ダンサーになるジャンヌと、物乞いの老女は、歴史上は同一人物なのだった。

    ジェーン・アヴリルは、踊り子のための教室を開校。
    映画では、ダンス教室の先生ギボル。
    「カンカンはもう古いよ」と彼女が言えば、ジャン・ギャバンが「それじゃあ、『フレンチ・カンカン』はどうだい?」と応じる。
    実際の「カンカン」は、国王ルイ・フィリップ時代(1830~48年)のパリで大流行した「ガロップ(ギャロップ=馬の速駆)」で、酔客と遊女が踊るものだった。

    それを作曲家ジャック・オッフェンバックが、オペラ・ブッファ(オペレッタ・軽喜歌劇)『地獄のオルフェ(天国と地獄)』(1858年)で、神々が踊る「地獄のガロップ」として大成功。
    ロンドンの興業主・振付師が、「フレンチ・カンカン」と命名し、フランスに逆輸入された呼び名だった。
    その音楽は世界で流行し、われわれが「運動会の音楽」と呼ぶものになる。

    オッフェンバックの成功は、ナポレオン3世の第2帝政期(1852~70年)と歩調を共にしている。
    それは、1860年4月、皇帝自身がオペラ座へこれを観劇に訪れたことで頂点に達した。
    万国博覧会にパリ大改造と、うわついた民情に合致していた。
    だが、1870年、普仏戦争がはじまると、ドイツ系のオッフェンバックには冷たい視線が注がれるようになる。
    敗戦によって皇帝が退位し、フランス国民の間には努力と忍耐という真面目な風潮が支配するようになった。
    オッフェンバックのオペレッタも、こうして流行の終焉を迎えた。
    19世紀末、「ベル・エポック」と呼ばれる好景気が復活し、「カンカン」は、舞台上でプロのダンサーがバレエのテクニックも採り入れ、華麗に踊って見せる演目となる。

    2025年、オーストリアの首都ウィーンは、「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世の生誕200年を祝う。
    年間を通じて各種演奏会ほかが目白押しだが、有名な「こうもり」や「ジプシー男爵」(ポリコレによる言い換えはないみたい)、それに「くるまば草」などのオペレッタも上演される。
    シュトラウスが、ワルツだけでなく、オペレッタも作曲・制作するようになったのは、1863年、ウィーンを訪れたオッフェンバックが、「あんたもオペレッタを作曲してみるといいよ」と言ったのがきっかけだった。
    その時、オッフェンバックは、この年下の音楽家が何者なのか知らなかったという。

    期待に満ちた2025年ニューイヤー・コンサートでの、シュトラウスのウィンナ・ワルツ演奏を目前にしながら、オーストリアでは、秋の総選挙いらい、新内閣の組成がまだ決まらない。
    極右オーストリア「自由党」が躍進、最多を占めたものの、単独多数には至らず、他党との連立交渉となるはずのところ、フォン・デア・ベレン大統領はこれを回避。
    現(旧)政権のネハンマー首相(総選挙で第2党となった中道右派「国民党」代表)に、第3党で中道左派「社会民主党」と連立を協議するよう指示(これで、1議席だけ半数を上回る)。
    両党は、いっそうの安定を求め、4番手のネオス(中道右派「未来同盟」)と交渉中だが、それぞれ折り合いがついていない。

    これまでの州議会選挙でも、「自由党」が次々に勝利しており、中央政界の動きと、オーストリア国民の思いは、どうも合致していないようである。
    極右政党の躍進は、フランスやドイツでも同様であり、ウクライナ和平・難民抑制、そして何よりも不景気対策といった政策を唱えている。
    そして政権与党となるためには、いずれも党内の過激派を押さえ、中道寄り路線を目指しつつある。
    その一方で、党内の極右過激派は、たとえばオーストリアでは、ナチス親衛隊(SS)の歌を歌って気勢を上げる始末で、心許ない。

    1940年、フランスにヴィシー政権が誕生し、フランス北部や首都パリがドイツ軍政下となったとき、ジャン・ルノワール監督は米国に亡命。
    偶然、飛行士作家サン・テグジュペリも渡米船で一緒だった。
    ジャン・ギャバンも、遅れて渡米する。
    だがサン・テグジュペリは、(自由フランス軍のド・ゴール将軍とは不仲だったので)米軍の飛行士としてフランスに戻り、偵察飛行中に行方不明となる。
    乗機の残骸と、彼のブレスレットが、戦後、海中で発見された。
    ジャン・ギャバンは、自由フランス軍の兵士となり、逃げるドイツ軍を追ってドイツ領内まで進撃した。
    ルノワール監督は、戦後まで米国にとどまり、やっと帰国して『フレンチ・カンカン』を制作したのだった。

    また、オーストリアの歴史上、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)にあるような、反ナチスのトラップ大佐の一家は、「家族全員が楽器を持ち、徒歩で山を越えて、スイスに入国した」のではなかった。
    そもそも、家族が暮らしたザルツブルグの西はドイツ(1938年のヒトラーによる「アンシュルス=独・墺併合」の翌1939年出国)で、これを避けてスイスへと向かうには、アルプス山脈を延々と500キロも横断しなくてはならない。
    父親のトラップ大佐は、旧オーストリア領の地中海沿岸(現クロアチア)で生まれた。
    第1次大戦のオーストリア海軍の英雄だが、敗戦でオーストリアは海を失い、彼も退役。
    故郷はイタリア領となったため、彼の国籍もイタリアに改められていた(したがって、家族も同じ)。
    一家は、「ニューヨーク公演」目的で、いったんイタリアに「帰国」することを認められ、国際列車でザルツブルグを発ったのである。


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