<2025.1.2寄稿 寄稿者 たぬきち> 2024年8月、パリの夏季オリンピック大会閉会式の冒頭、チュイルリー公園の聖火台気球の下で、女性歌手ザホ・デ・サガザンが、有名なシャンソン「パリの空の下」を歌った。
もともと、この歌は、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「パリの空の下セーヌは流れる」(1951年)の劇中歌で、歌詞の中に、「ノートルダム界隈には、時々ドラマがあるが、パリじゃ、いつもうまくおさまる」とあり、ファッション・モデルの若い女性のアパルトマンの窓からも、大聖堂が見える。 2024年12月、その大聖堂は、5年前の大火災から復旧。
デュヴィヴィエ監督は、第2次大戦前の1937年、ジャン・ギャバンとミレイユ・バラン主演の「ペペ・ル・モコ」(邦題:望郷)を制作したが、その後、戦中は渡米、「パリの空の下」は、帰国後の作品である。 華やかなファッションの世界だけでなく、工場労働者のストライキや、変質者の殺人鬼まで登場するものの、その映像と歌は、世界中にフランス・ブーム、パリ・ブームを引き起こした。
小学校に上がる前、私の家は夜の歓楽街のど真ん中にあり、夕方、「同じ町内!」の洋画専門館に行くため、いつも父は私の手を引いて行った。 大人の男ひとりでは、街頭にたむろする客引きが通してくれない、という理由だった。 小さな子どもが夕食後、暗い客席で、ずっと大人向けの外国映画を観たとは思えない。
でも目が開いていれば、映画のシーンのことを父に尋ねた。例えば、「望郷」なら、 「あの男の人はどうしたの?」 「ナイフで自分を刺して死んだ」 「なぜ死ぬの?」 「船に乗れなかったから」 「乗れないの?」 「警察に捕まった」 「なんで?」 「悪い事をしたから」
映画のあとなら問題ないが、上映中にこれをやるもので、暗い客席のどこからか、「静かにしろっ!」と叱られた。 父が質問をさえぎることは、決してないのだった。
チューリッヒ中央駅にほど近い映画館で、1983年カンヌ映画祭パルム・ドール(黄金のヤシ:最高賞)受賞作品「ナラヤマのバラード」(邦題「楢山節考」今村昌平監督)を観た。
緒形拳の主人公が、坂本スミ子(この人は、歌手だった)の母を背負い、楢山へ向かう途中で、「父を殺し、母を殺し、のがれられない運命(宿命:デスティネ)だなあ!」と嘆くと、館内に、「ワアッ!」と、悲鳴のように大きな、女性の泣き声が上がった。
コンサートの時のように、「シーッ!」と誰かが叱るに違いないと思ったら、そうではなくて、あちこちから、押し殺したすすり泣きが聞こえてくる。 暮らしてみると、先進国で豊かな国ほど、親子の情愛は薄い印象を抱いていたが、映画が終わり明るくなっても、泣き崩れて立ち上がれない観客と、中腰でそれを慰め、途方に暮れる同伴者がそこかしこに。
昔の日本の山村と、高地スイスの寒冷な自然に共通点を見たか、それとも、「デスティネ」に反応したのだろうかと考えた。
ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」(1831年)の冒頭、「大聖堂内部の壁に、「宿命」とギリシャ文字で刻まれているのを見つけたが、その後、改修時にか、塗りつぶされ消えてしまった。刻んだ人物も、はるか昔に死んだであろう」とある(辻・松下 訳 岩波文庫)。 大聖堂の屋根に並ぶガルグイユ(ガーゴイル)のように醜い鐘つき男カジモドと、美しいジプシー(ロマ)娘エスメラルダの運命が交錯する物語。 今回の大修繕でも、復旧を急ぐあまり、消滅したものも多いという。
「望郷」で、ジャン・ギャバンのペペを相手に、ファム・ファタール(男を惑わす「運命の女」)ギャビーを演じたミレイユ・バランは、第2次大戦時に、ドイツ将校と親しくなったことで、戦後、敵に協力した罪に問われた。 だが予審判事は、特段の利敵行為の証拠なしとして、事件を不問に処した。 そして、それ以上の問題にならなかったことが、逆にマスコミや映画業界の無関心を招き、彼女は復帰叶わず、アルコール依存症に陥り、1968年、59歳で死去。
ドイツ軍人と親しくなり、対敵協力の罪に問われたフランス女優の筆頭は、アルレッティ(映画「北ホテル」1938年、「悪魔が夜来る」1942年、「天井桟敷の人々」1945年)だった。 裁判でいったん有罪とされたものの、その後、疑いは晴れた。 裁判長に向かって、「私の心はフランスのもの、だけど、お尻は世界のもの!」と言い放ったというエピソード付き(ジャーナリストの作文で、いろんなバージョンがある)。
アルレッティは、パリ中心部よりややセーヌ川下流のクールブヴォワの工場地帯出身。 同郷の作家セリーヌが、反ユダヤかつペタン元帥支持派で、ドイツからデンマークまで逃亡生活を送ったのち帰国。 だれもがセリーヌとの交際をはばかる中、彼女だけが、堂々と親しく行き来したのだった。
映画にも復帰し、後年は失明するも、声優として活動を続け、独特のしゃがれ声が愛された。 1992年に94歳で死去。
人為(じんい=人の行い)で変えられるのが「運命」、どうにもならないものが「宿命」。 二人の女優の「運命」の分かれ目は、どこにあったのだろう。
ミレイユ・バランは、誇り高い孤独の人。 恋人のドイツ将校は、裕福な家系の出身で、モナコ公国に隣接するコートダジュールのボーソレイユに別荘を所有。 そこへ二人で避難して、モナコの政治家の仲介で米国亡命をはかったが、共産主義レジスタンスに逮捕され、そこでひどい辱めを受けた。
アルレッティは、下町育ちの剛毅(ごうき=たくましい)な性格。 一般市民が食料不足に苦しむ中、パリのドイツ大使オットー・アベッツが主催する高級ホテルでの豪華なパーティーの常連だった。 うらまれてもよさそうだが、かえってそれが、マスコミや映画界だけでなく、大衆の記憶や注目を左右したのだろうか。
ドイツ女優パウラ・ベーア主演の映画「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女(邦題)」(2023年秋、チューリッヒ映画祭でプレミア上映)が、2025年2月7日に日本公開される。 ピーター・ワイデン著「ステラ・ゴルトシュラーク ステラの真実(小松・米澤 訳「密告者ステラ」原書房2010年。英語版1992年・ドイツ語版93年)に沿い、史実に忠実な構成。
1922年、ユダヤ系ドイツ人の音楽家の両親のもと、ベルリン生まれのステラは、米ブロードウェイの歌手になる望みを抱いていた。 学校一の美貌、すらりと背が高く、金髪と青い目のアーリア人種の理想の外見。 だが1933年、ヒトラーが政権の座に就く。
著者のワイデンは、ユダヤ学校のステラの同級生だったが、両親とともに、いち早く米国亡命。 ステラは、ナチス秘密警察(ゲシュタポ)に逮捕・勧誘され、両親と夫の強制収容所送りを防ぐため、ベルリンに潜伏するユダヤ人を摘発する「グライフェリン(女狩人)」となる。 両親と夫の目こぼしはなく、彼らの死後、逆に、彼女はいっそう熱心にこの仕事に取り組んだ。
ステラは、600人から3,000人の逮捕に関係した(ほぼ全員が、収容所で死亡)とされる(ル・パリジャン紙)。 戦後、彼女は、1946年にソビエト地区で、1957年に西ベルリンで、各10年の刑を宣告されたものの、服役は10年だけで重複扱いで済んだ。
1984年、ドイツ南西部フライブルクで、アパートの窓から身を投げ自殺未遂。フライブルク大学病院の精神科で治療を受けた。 1994年10月、フライブルク・ラントヴァッサー(スイス・アルプスの渓谷)のモースヴァイアー川で、72歳で亡くなった。 楢山の光景よりもっと険しい断崖絶壁下の渓流だが、近くまで電車で行け、遊歩道がある。
晩年の生活は、孤独でも、5回の結婚で亡夫のいずれかが残した年金で、経済的には困窮していない。 自分の責任を認めることは、決してなかったという。 それにしても、なぜ移住先がフライブルクだったのか。
イスラエルのモサド(情報機関)からも追われ、旧西ドイツ政府に、新たな名前で暮らすことを認められた。 フライブルクの市域は広く、フランス国境にもスイス国境にも近い。 旧東ドイツ軍の戦車が西へ攻め込んだら、いちばん逃げやすいと言われた。 ベルリンから最も遠いともいえるが、旧市街に立つと、中世のような町並みが美しく、隠れ住むには適していないように思う。
ところで、「ステラ」の映画には、14ページの「学習用パンフレット」(ドイツ語)が付いていて、映画を観た生徒達(16歳以上)は、これを使ってグループ学習できる。 一般用にも、36ページあるいは43ページの解説パンフレットがあり、当時の時代背景や政治状況が示され、「ステラは加害者か被害者か」といった単純なとらえ方をしない工夫がなされている。 日本公開に、「パンフレット」は付くのだろうか。