<2025.1.31寄稿>
寄稿者 たぬきち
南北アメリカを結ぶ細くくびれた「パナマ地峡(ちきょう)」を掘削し、大西洋と太平洋をつなげば、船舶は、南極近くまで遠回りして「吠えるホーン岬」通過に挑戦する必要がなくなるとの考えは、早くから思いつかれていた。
カナダの北回りは、ノルウェーのアムンゼンが北西航路を開いたのは、やっと1906年のこと。
だが19世紀初頭、その画期的なアイデアを現実のものとして、「科学的に」紹介したのは、プロイセン(ドイツ)の博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトである(私は、彼の名を冠した財団の給費奨学生でした、感謝!)。
フンボルトは、1799年から5年かけて南米中心にアメリカ大陸を探検。
パリに定住し、フランス語で成果を執筆。
その後、ドイツ語、そして必要箇所を英語で紹介して、自身の中南米開発の考えが米国で関心を持たれるよう努めた(木村直司 編訳「フンボルト 自然の諸相」ちくま学芸文庫)。
当時のジェファーソン米大統領と親交を結び、運河開削のアイデアを持ちかけたのだった。
米側は、当時の技術では実現困難と考えていた。
のちの1850年頃、カリフォルニアでゴールド・ラッシュが始まると、1855年、米国資本の手で「パナマ鉄道」が設けられた。
けれども、海路→陸路→海路では、積み替えの手間と鉄道の輸送力に限りがあり、時間がかかってもよい貨物なら、やはり従来通り「ホーン岬」経由の船便でという状況だった。
かつてのフンボルトのアイデアは、「パナマ地峡」よりも、ウルグアイの湖(みずうみ)経由を勧めるものだったが、米側の見解も、同様に、「ウルグアイ運河」案を優先していた。
ところが、当時のウルグアイは、火山活動が盛んで、近くの街が壊滅するような大噴火もあって、米国の政治家や企業・資本家の意欲は衰退してしまう。
1869年、フランス人フェルディナンド・レセップスは、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の開削に成功した。
奇しくも同年、米国の東海岸と西海岸を結ぶ大陸間横断鉄道も開通。
レセップスは技術者ではなく、ヴェルサイユ生まれの元外交官で、エジプトの政治情勢に精通し、タイミング良く工事許可を取得できたのが、成功の秘訣だった。
彼の「スエズ運河会社」によって、フランスの資本家から零細な個人投資家までが大もうけし、レセップスは「グラン・フランセ(偉大なフランス人)」と呼ばれ尊敬されていた。
1879年、レセップスは、既に75歳になっていたが、次に「パナマ運河」に取り組むことを思い立ち、「両大洋間パナマ運河会社」を設立。
今回の事業は冒険過ぎるとして、プロには人気がなく、個人の小口投資が中心になった。
当初、レセップスは、パナマ(スペインから独立したコロンビア領)でも、エジプトの砂漠と同様、単純な「海面方式(水平掘り)」の運河を考えていたが、現地の高低差を考え、中途で、「閘門(こうもん)方式」へと切り替えた。
「閘門」で仕切られたプールに水を入れて船を持ち上げ移動、水を抜いて下段に降ろす。
そのためには、巨大な鉄製の「門」が必要となるため、その設計と製造は、エッフェル塔を建設中の高名な技術者「鉄の魔術師」ギュスターヴ・エッフェルに委ねた。
パナマの作業現場では、黄熱病とマラリアが蔓延し、数万人の人命が失われ、ついに資金は枯渇し、事業中断に追い込まれる。
レセップスは、「富くじ付き債券」の発行を国に認めてもらおうと運動し、パナマ会社の延命をはかるものの、1888年ついに倒産。
個人投資家の破産や自殺等の悲劇が相次ぎ、レセップスと長男シャルルは運河会社に対する「背任」、パリ万博に合わせエッフェル塔を完成したばかりのエッフェルも、高額の先払い金「横領」を問われた。
レセップスは88歳の高齢を理由に収監を免れたが、シャルルには建設大臣への「贈賄」も加わり1年服役。エッフェルは上級審で無罪となる。
銀行家レナック男爵と実業家エルツという二人のドイツ系ユダヤ人が、こうした政界工作を担当しており、のちに首相となる有力政治家ジョルジュ・クレマンソーをはじめとする大勢の国会議員達に賄賂をばらまいていたとの新聞暴露記事のせいで、内閣が交替したり、クレマンソーが次の選挙で落選したりしたが、元建設大臣一人が「収賄」で有罪というだけに終わった。
その原因は、レナック男爵の急死だった。病死か自殺か、それとも暗殺かと、フランス社会は騒然となる。
墓をあばいて遺体を解剖したものの、既に腐敗が進んでいて、死因は解明できなかった。
具体的な収賄政治家の名簿を持つエルツは、国外逃亡し、のちの「ドレフュス事件」(1894年)へと至る反ユダヤ感情を高めた(大佛次郎『パナマ事件』朝日文庫1983年)。
1898年、エミール・ゾラは、「パナマ事件」をモデルに、こうした経過をたどり、ただし、こちらは、1881年に起きた「サハラ横断鉄道事件」(調査隊が、トゥアレグ族に殺害されて終わった)のこととして、大作『パリ』を出版している(竹中のぞみ 訳 [上・下] 白水社)。
パナマ運河掘削事業は、米国に引継がれ、黄熱病撲滅のためには、ロックフェラー研究所の研究員であった野口英世も現地入りした。
パナマ運河は、1914年8月の第一次大戦勃発直後に完成。
米国は、運河の管理権と運河地帯の利用権を手にするため、「パナマ共和国」をコロンビアから独立させた。
1941年7月、日米関係が悪化し、米国政府は、日本の船舶のパナマ運河通行を禁止。そして同年12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃により日米開戦。パナマ居住日本人は全員身柄を拘束された。
翌42年4月、移送先の米本土オクラホマ州の収容所で、ハワイ組と合流。その後、カリフォルニアからの日系人も加わった(山本厚子『パナマから消えた日本人』山手書房新社1991年)。
かねて日本側は、パナマ運河を通行可能な米海軍の戦艦(パナマックス級)よりも大型で巨砲を装備する艦、大和・武蔵型を準備。
また開戦後は、小型爆撃機を搭載する潜水母艦(伊-400型)を建造し、パナマ運河の爆撃・破壊を企てたものの、その完成時には、既に1945年3月の沖縄戦を迎えており、作戦は放棄された。
戦後は、パナマにおける反米感情が高まり、1977年、カーター大統領が、米国内の反対を押し切って、20年後の運河返還を約束。
1989年末、独裁者ノリエガ将軍のもとで、麻薬取引が蔓延(まんえん)、ついには米兵が射殺される事件をきっかけに、米軍が軍事侵攻(「ジャストコーズ=正当理由」作戦)。将軍を逮捕、米本土へ連行して裁判にかけ投獄。
1999年、運河は全面的にパナマ側へ返還された。
2018年、台湾との国交を断絶したパナマを、中国の習主席が訪問。
「一帯一路」構想の一環として、パナマ側と合意し、運河の太平洋側と大西洋側の両方の出入り口に、中国企業が管理運営する港湾施設を設けた。
さらに、東側コロン市のマルガリータ島に、中国企業が巨大コンテナ・ターミナルを建設しようとしていたが、これは、実行された投資金額が少なく、地元民の雇用も進まないということで、パナマ政府にキャンセルされてしまった。
今は、スイス企業等によって建設が再開されている。
先に日の目を見なかった「ウルグアイ運河」についても、中国企業がその建設をウルグアイ政府と合意したものの、中国での汚職問題により、この企業そのものが消滅し、計画は立ち消えとなった。
トランプ大統領は、就任前から、「パナマ運河の通行料はぼったくり!」、「運河をパナマから取り戻す」、「パナマ運河の中国兵」といった趣旨の発言を繰り返した。
「ぼったくり」は、ビジネスマン出身大統領としての指摘だろうが、気候変動に伴う水不足で船舶の通行量が減り、パナマ側は、新たな掘削工事や導水路の新設等を強いられている。
パナマ大統領は、「運河はパナマの主権下にあり、中国兵はいない」と反発するものの、パナマはペルーに次いで、中国の影響力が大きい国になっている。
パナマの国内世論は、中国の進出当初から一転して、「このままでは、スリランカのように、『債務の罠(わな)』に陥るおそれがある」という、反中国感情の高まりをも示している。
それもあってか、パナマ政府はこれらの港湾施設に、急きょ監査に入り、中国企業がパナマの統制下にあることを強調。
パナマは運河を管理しているが、香港に本拠を置くハッチソン・ポート社は、運河の両端バルボアとクリストバルにある2つの港を管理している。ハッチソンとその親会社であるCK ハッチソン・ホールディングスは、香港の大富豪が所有しているが、2020年に香港にも及ぶとされた「国家安全維持法」の対象。
中国側が、運河の航行を常時監視し、情報を収集、たとえば台湾有事にはパナマ運河を閉鎖するのではないかと、米側は懸念。
トランプ発言は、こうした中国企業の存在を、「中国兵」で表現しているのだろう。
2025年1月24日、ドイツの報道によれば、中国南岸に位置する寧波(ニンポー)を出発した貨物船が、スエズ運河と地中海を経由し、従来の40日でなく、わずか26日で、北海に面したヴィルヘルムスハーフェンに到着。積み荷は、鉄道でハンガリーに建設中の中国のEV工場に送られた。
だが、中国側の主目的は、陸路を東へ戻ることではなくて、北大西洋航路で北米東岸を目指し、米軍によるパナマ運河封鎖に備えることだとする見方もなされている(北ドイツ放送)。