【寄稿№79】シムノンの『月射病』は、旧フランス植民地時代のガボン(アフリカ西岸)が舞台 | 茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

TOP読者投稿コラム一覧>【寄稿№79】シムノンの『月射病』は、旧フランス植民地時代のガボン(アフリカ西岸)が舞台

  • 【寄稿№79】シムノンの『月射病』は、旧フランス植民地時代のガボン(アフリカ西岸)が舞台




    <2025.3.6寄稿>                                            
    寄稿者 たぬきち

    2025年1月20日、トランプ政権は、「対外開発援助90日間停止」大統領令を発令。
    これを受け、国務長官は、1961年にジョン・F・ケネディ大統領によって設立された国際支援を担うアメリカ政府機関「米国国際開発庁(USAID)」に、対外援助交付金に関する作業停止を命じた。
    その後、ルビオ国務長官がUSAID長官代行に任命され、USAIDの請負業者を解雇または一時解雇にした。

    2月3日、「政府効率化省(DOGE)」を率いるイーロン・マスクは、「USAIDを粉砕機送りにする」と宣言。ワシントンDCのUSAID本部は閉鎖され、2月4日、USAIDのウェブサイトに、USAIDの全職員を2月7日付けで休職とする、というメッセージが掲載された。

    米国政府職員連盟は、2月3日、トランプ政権を相手に、コロンビア特別区の連邦地方裁判所へ、「これらの違法行為を撤回し、機関を解散するための措置を停止する」よう指示する一時的かつ恒久的な差止命令を求めた(事件番号1:25-cv-00352)。
    裁判官は、いったん仮差止めを認めた上で、審理に入った。

    「訴訟トラッカー(追跡・収集) トランプ政権の行いに対する法的異議申し立て」というサイトによれば、3月4日現在、全体で96件の訴えが提起されており、DOGE関連が24件、USAID関連が4件となっている。

    1月20日の大統領令は、世界中に派遣されているUSAID職員を驚かせたが、なかでも、コンゴ民主共和国(旧ベルギー領コンゴ)首都キンシャサの関係者は、1月27日、現地で発生した暴動騒ぎのため、緊急脱出して帰国せねばならず、その事情が訴訟の証言記録に示されている。

    マーカス・ドウの証言(ドウは、匿名)
    「私は、キンシャサの米国大使館に配属されたUSAID職員です。
    1月20日の大統領令の表現と範囲は曖昧で、現地では、その解釈と実施方法の検討に着手しました。
    東部の反政府武装勢力M23が、北キブ州の州都ゴマを制圧すると、1月27日、キンシャサを揺るがした抗議暴動が発生。多くのコンゴ国民は、米国を含む西側諸国が、この戦争に責任があると見ているためです。
    28日朝、治安状況が悪化し始めたため、出勤途中の職員とスクールバスの子ども達は、自宅へ引き返しました。
    別のUSAID職員からのメッセージによれば、彼の家の外で抗議者が火をつけ、損害を加えているという。彼と家族は、アメリカ大使館で働く武装警備員によって無事に救出されたものの、略奪によって全ての持ち物を失いました。
    正午頃、私の家の塀の外で抗議者たちが叫び声を上げているのが聞こえ始めました。外で遊んでいた子供らを呼び、妻と私は家のすべてのドアと門に鍵をかけました。怖かった。幸いなことに、抗議者たちは門を破ろうとはしませんでした。
    他の外務省の同僚や家族と一緒に小型ボートに乗り込み、コンゴ川を渡って対岸コンゴ共和国(旧フランス領コンゴ)首都ブラザビルに向かいました。各自が自分の膝に収まるものだけを持ち込むことができました。ブラザビルのホテルに2日滞在後、31日午後ダレス国際空港に到着しました」。

    ネイサン・ドウの証言
    「私は、現地キンシャサのUSAID副所長です。中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、ガボン(いずれも、旧フランス領)向けの援助と連絡を担当していました。
    1月28日、数百から数千人の暴徒が市内を移動。米国大使館や米国外交官公邸を含む西側諸国の大使館や外交施設を攻撃しました。
    私と妻、10歳未満の子供3人の5人家族は、午前3時に護送隊に守られ、仮設住宅に到着し、29日に船でブラザビルに渡りました。ブラザビルで一晩過ごし、その後国務省が手配したチャーター機に乗り込み、ほぼ24時間後の31日、ワシントンDCに到着しました。私たちは犬とすべての家財道具を残し、バックパック4つだけを持って逃げることができたのです」。

    オリビア・ドウの証言
    「私の担当分野は、コンゴ民主共和国から米国へ重要鉱物の紛争フリーのサプライチェーン確立でした。私の仕事の多くは、現地政府関係者と関係を構築し、米国とのパートナーシップの利点を知らせることです。世界のコバルトの70%以上がこの国で生産され、ほぼすべてが中国に出荷されています。
    私は「ロビト回廊鉄道」(アンゴラ)に対する米国支援の主任コーディネーターも務めました。この鉄道が完全に開発されれば、コンゴ民主共和国から米国への鉱物の輸送時間が大幅に短縮されます。このプロジェクトは、米国から既に5億ドルの支援を受けています。 
    1月28日、夫と私はオフィスまでの車の途中で、道路が封鎖され、暴力的な抗議活動が始まり、路上にいるのはもはや安全ではないと通知されました。私たちは午前7時15分までに帰宅し、西洋人と外交ナンバーの車が標的にされているため(石を投げたり、叫んだり、暴力を振るったり)、私たちの2人の幼児は幼稚園に行かなかった。それ以降、抗議活動者は増え、何千人もの抗議活動者と略奪者が街に群がり、大使館に火をつけ、タイヤを燃やし、西洋人と思われる人を攻撃しました。
    正午頃、USAIDミッション・ディレクターは、数十人の略奪者が自宅に侵入し、自分と妻が自宅に閉じ込められていることに気づきました。コンゴ警察は介入を望まなかったため、大使館の即応部隊の迅速な対応により、彼と妻は安全に避難することができました。しかし、略奪者の数は増え、家からすべてを盗み出し、何も残しませんでした。
    子供たちの思い出も貴重品も、すべて失われました。さらに悪いことに、略奪の様子はソーシャルメディアでライブ投稿されました。
    29日午前2時に、私たちはスピードボートでブラザビルに緊急避難するための迎えを受けました。膝の上に載せられるものしか持っていくことが許されず、最も貴重な所有物と重要書類はすべてバックパックに詰め込むことを余儀なくされました。
    これは、路上での暴力を目撃したばかりで、その後突然、唯一知っている家を離れることを余儀なくされた、5歳未満の2人の子供にとって特にトラウマとなる経験でした。子供たちは、さよならを言うことさえできないまま、友達、そして家族の一員のような最愛の乳母から引き離されました。
    3日後、私たちは、暖かい服も、滞在する場所もないまま、ようやく冬のワシントンDCに戻りました。到着したとき、DOGEとトランプ政権が私たちを「犯罪者」と呼んでいるというニュースがありましたが、乗り越えたばかりの試練の後で、特に耐え難いことでした。
    USAIDは、貿易を増やし、コンゴ民主共和国の経済と、同国のみが生産する重要鉱物に依存する米国の消費者に利益をもたらす、強力で相互に利益のあるパートナーシップの構築に懸命に取り組んできました。これが危機に瀕しているのです。中国はすぐにでも参入し、引き継ぐ準備ができています」。

    1932年夏、シムノンのアフリカ旅行
    ベルギーからフランスに渡り、「メグレ警視」シリーズで成功したジョルジュ・シムノンは、1932年の夏、出版社の資金でアフリカ旅行。その旅行記は、同年10月と11月に『ヴォワラ』紙に掲載された。

    カイロ、ハルツーム、ジュバ、ベルギー領コンゴを経て川を下り、キンシャサまで1,700キロ。彼はコンゴ川の河口近くにあるマタディ港に立ち寄り、港湾管理の役人だった弟クリスチャンに会い、5日間一緒に過ごした。

    最終回(11月12日号)では、「カヌーで川を下りました。光沢のある肌をした12人の黒人が立ち、漕いでいる。そのうちの一人が一種の嘆きの歌を唱え、残りの全員が、振りかざされた12本のパドルが水中に沈みかけたまさにその瞬間に、彼らの努力を中断する2つの強力な音節で反応した。太陽が空に昇ると、私の黒人たちは私の頭の上に小さく並びました」。
    このシーンは、シムノン(瀬名監修・大林訳)『月射病』東宣出版2025年に、そのまま利用されている。

    「別の白人であるフランス人にも当てはまりますが、彼は文字通り、A州で最も湿地帯で不健康な州全体を所有しています。彼は一銭も文化も持たずに到着しましたが、すべての仕事をこなしました。彼は今では大富豪です。しかし、彼は年末から年末まで、小屋を作って乗り切った厄介な船で暮らしています。彼は60歳を超えています。彼は足を引きずっていた」。
    この人物も、シムノン(伊藤訳)『フェルショー家の兄』筑摩書房1970年に登場する。

    だが、ガボンの首都リーブルビルのホテルでの描写が、のちの裁判で問題視された。
    小説「月射病」は、「ジョルジュ・シムノンの未発表小説」として、当初、「カンディード」紙1933年1月19日号から連載されたが、「彼は通りかかったトラックを呼び止め、リーブルビル唯一のホテルであるサントラル(セントラル)に連れて行ってもらった」と、ホテルは実名。

    「アデル」なるホテル・オーナーの女性の不倫と原住民殺害、無能なフランス人総督や警察署長、粗野なフランス人入植者などを描き、リーブルビルでこのホテルを経営していたメルシエ夫人は、自分がモデルだと名誉毀損で告訴することを決意。20万フランの損害賠償だけでなく、原稿の差し押さえも要求した(シムノンの旅行費用が、10万フラン)。
    シムノンは無罪となり、パリ刑事裁判所の判事は、本名である「未亡人メルシエ(こちらが本名)の名前は、小説で言及されていないから」という。
    判決理由には無理があり、著者はベルギー人なのだから、フランス領のガボンでなく、ベルギー領コンゴを舞台にすべきだったとも、世間に非難された。

    ベルギー領コンゴについては、同じベルギー人の作者エルジェによる1931年出版のモノクロ版『コンゴのタンタン』では、「スノーウィ、ここはコンゴだ。マタディに着く前にボーマに寄港する」と語らせている。

    シムノンはまた、フランスによるコンゴ・オセアン鉄道の建設(旧フランス領)も批判した。
    「現在、アフリカの赤道直下、コンゴ・オセアン鉄道では平均して1歩ごとに黒人1人、1キロメートルごとに白人1人が殺されている」。労働力補充のため、「中国人は貨物ごと運ばれてきた。生存者を本国に送還するには、非常に小さなボートで十分だったでしょう」(ヴォワラ1932年10月22日)。
    ベルギー人あるいはフランス人がいう中国人は、ベトナム人(旧仏領インドシナ)なのだろうか。他のシムノン作品『摂氏45度の日陰』(1936年)では、「アンナン人」と記されている。

    コンゴ共和国のブラザビルとポワントノワールを結ぶ「コンゴ・オセアン鉄道」は、1921年から1934年までの間に、フランス植民地政府により、建設された。
    そして現代のアフリカでは、「一帯一路」構想下での中国の進出・存在が見られる。
    「ロビト回廊」と「タンザン鉄道」によるザンビアの鉱物の積み出し(西のアンゴラ、東のタンザニアで、大西洋・太平洋へ通じる)。貨物中心で、採算性は見通せていない。

    アフリカ北部と中央部の旧植民地諸国から撤退を続けているフランスの現在の関心は、アフリカ東南岸モザンビークでガス田開発に取り組む仏トタル・グループの事業である。日本の商社も参画しているが、イスラム原理主義テロがあって、停止状態。
    駐モザンビーク米国大使は、ルビオ国務長官に緊急電を送り、「米国の主要援助機関の職員全員がモザンビークから強制的に撤退すれば「大きな脆弱性」が生じるだろう」と述べた。大使は、経験豊富な管理者がモザンビークに常駐することが必須のUSAIDのプログラムの一つが、HIV感染者38万9000人に不可欠な治療だと指摘した。ニューヨーク・タイムズ2月 8日。

    冒頭のトランプ政権に対する差止め訴訟で、2月21日、裁判官は、「損害発生のおそれが見当たらない」として、差止めを認めなかった。

     


PAGETOP