<2018.9.21記>
私には「母」について語れるほどの思い出(記憶)が無い。幼稚園の卒園式では、担任の先生が私をきつく抱きしめて泣いていた。当時は少し自慢に思って「なぜ僕だけ?先生は余程僕のことが好きなんだな。」などと的外れなことを考えていたが、その年の夏、齋藤家を突如襲った悲しみは先生にも痛いほどに伝わっていた。卒園式に母のいない私を哀れみ、行く末を案じて泣いてくれたのだと思う。
地元の市民病院で母が臨終を迎えた時、呆然とする祖父と父、まだ赤ん坊の弟を抱く祖母、母の骸にしがみついて泣きじゃくる兄を尻目に「外で遊んでくる・・・。」と言い残して私は静かに病室を出た。その時に菩薩の化身かのように優しかった祖母が、その生涯唯一度だけ私に浴びせた険しい非難の眼差し(鬼の形相)を今も忘れることができない。祖母の生前に言い訳(遊びに行くはずも無かろう。)しておけば良かったと思う。経験したことの無いその悲しみは、まだ5才の私の受忍限度を遥に超えていた。八月の炎天下、私は病院敷地内の並木道を喧しい程に降り注ぐ蝉時雨の中、嗚咽を漏らしながら俯き加減でとぼとぼと歩いていた。とても鮮明な記憶である。なぜだろう、その涙は誰にも見られたくなかった。滲む視界の向こうに病院に駆け付けた叔父夫婦を見つけた時、慌てて涙を拭って笑おうとした。子供とは妙なところに意地を張るものである。
父は、若くして個人商店を興して成功していた。高度経済成長の波に乗ったこともあるが、困難な時代であってもきっと成功するタイプだと思う。経営者として尊敬すべき点も多い。また、反面教師とすべき点もある。
ある日、小遣い稼ぎに仕事を手伝う中学生の私に父は嘆くように言った。「この門からな、この(工場の)門から『外』へ荷(商品)を出さなきゃ駄目なんだ。」それは、倉庫内の荷物を右から左へ、左から右へとフォークリフトで器用に整理整頓する片腕(専務)に対しての苛立ちから出た本音であり、期待値との温度差を思わず吐露したものだ。要するに、工場内を整理整頓するだけでは、利益を生まないということを言っている。
私の母校(明治大学)のラグビー部の故北島監督の名言「前へ」は、逃げたり、躊躇ったりすることをなく突き進む崇高な精神を説くものであると解釈しているが、父の「外へ」も商売人として判り易い名言であると思う。とかく組織は安定すると内向きになる。「形」ばかりに囚われてチャレンジ精神を失い易い。不動産業とて同じことだ。社内的な報告・連絡・相談ばかりに時間を割いても果実は生まれない。
私が小学生の頃、実家から徒歩圏のミカン畑を農家から直接買い受けた時の父の自慢気な顔が脳裏に焼き付いている。当時の父は、「お兄ちゃんはここ(実家)、お前とヒロ(弟)は、ミカン畑に家を建てれば良い。」と言っていた。おそらく、兄弟三人が力を合わせて事業を継ぐことを期待していたのだと思う。残念ながら父の思惑通りにはならず、私は東京に住むこと30年をとうに超える親不孝者となった。
父は、実家の両隣をいつの間にか買い増していた。(隣人から「買ってくれ」と頼まれたらしい。断じて地上げのようなものではない。)叔父の家も父が主導して競売で落としたものである。父が不動産仲介業者を頼ったのは、工場用地取得の時のみ。その時の大きな借金も亡くなる迄に完済していた。
弟の幼稚園時代は、PTA会長も務めた。前述のミカン畑を園児に無料開放してミカン狩りを企画するなど皆を喜ばせるアイデアマンであった。支援した政治家は、後に市長となる。町内の青年団のソフトボールチームの監督を引き受ける親分肌でもあった。齋藤家の菩提寺である「永明寺(富士)」には、父の寄贈したものが多い。入口付近の巨大な灯篭にも、名所となった「延命子育て地蔵尊」を囲む石柱にも、誇らしげに父の名が刻まれている。一時は、寺の桶・柄杓は殆どが父の寄贈したものだった。
全くもって大したものである。試練の多い生涯であったかもしれないが、短くも濃厚なものだったと思う。
私も、あと数日でその父が逝った54才となる。まだまだ青い。
このコラム欄の筆者
齋藤 裕 (昭和39年9月生まれ 静岡県出身)
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