<2023.11.13記>
1990年代半ばの今頃(会社員時代)、30才を過ぎたばかりの私は通い慣れた本社(所在:新宿区)を離れ、郊外の新築マンションの販売現場で完成在庫(売れ残り)の一掃作戦に従事していた。私が所属していた法人営業部(法人向け仲介部門)のほぼ全員が新築販売部門(親会社を事業主とする販売代理部門)に異動して仲介経験者のみで販売に携わるという異例の人事(短期「特販チーム」の編成)だった。
当時は財閥系の不動産会社と謂えどもバブル経済崩壊の煽りで親会社の財務が急激に悪化、その焦りと苛立ちがあったと思う。「マンション販売不振の原因は『お嬢様営業』のせいではないのか?(販売スタッフを総入替えすべきじゃないのか!)」今なら紛れもなくセクハラ・パワハラ発言となるような激しい罵声を新築販売部門が浴びていた頃である。今だからこそ本音で言えるが、会社の知名度・信用力を拝借(≒利用)しつつも己の脚(「個」の力)を頼みとするややコンサバティブな営業手法(所属:法人営業部=リテール部門と異なり広告による集客無し、所謂「反響営業」と対照的な営業スタイル)でありながら、難度の高い億単位の事業用資産の取引(1件当たりの手数料は1千万円超が普通、1件で6千万円超の大型取引の実績もあった。)を幾つも成立させ、不動産不況下にあっても部署で唯一人好成績を持続させていた私にとって、親会社が抱いていた不信感と同じく新築販売部門に対して「ぬるま湯体質」を、己の部署の先輩・上司に対してすら「不甲斐なさ」を感じていた。それでいて好業績を維持するリテール部門(高歩合給の個人向け仲介部門)にもチラシ投函ばかりに労力を費やす負のイメージがあって職場として惹かれるものは無かった。
その新築販売部門に異動したわけである。望まぬ人事だったせいもあって嬉しくも無かったのだが職場環境はとても恵まれていた。まず、仲介部門と違って売るべきものは営業努力せずとも其処にあった。広告すれば買主が向こうからやって来た。「販売マニュアル」も完備されていて「想定Q&A」も綴じ込まれていた。その「あんちょこ(現在は死語?)」など無くとも(ほぼ)完成物件だったから実物を見学して貰うことが最大の決め手となった。また、その実物は棟内モデル―ルーム(以下「棟内MR」)としてエアコン・照明・カーテン・家具等を備付け、一部特典として購入者に贈呈したので見映えが良くなったうえに「お得感」が「売れ残り感」を上回って購入者にとても喜ばれた。住戸が売約済となる度に販売促進の予算枠で許される限りの棟内MRを移設・新設して売れ行きに弾みを付けることもできた。その上、重要事項説明書や売買契約書は徹夜して作らずとも立派に製本された印刷物が事前に納品されていた。(黎明期の法人営業部は重要事項説明書のみ手書きによる複写式の雛形を採用、契約書はその都度内容に合わせてワープロでオリジナルの条項を作成して手作業で袋とじしていた。)更に営業マンの気持ちを鼓舞するために成約の都度に数万円の報奨金が翌月支給される制度まで特別に設けられていた。よって、私の年収はその年急増、翌年の住民税額に面食らった記憶がある。法人営業部の新卒採用第1号だった私は入社以来約7年間、とんでもない過酷な高地トレーニング(空気の薄い高地での走り込み)を積んでいたのだと改めて実感した。お陰で新築販売の仕事は軽やかに熟すことができた。
今振り返ればとても良い経験であった。それまでの私の不動産に対する知識は事業用・投資用に偏っていたが、新たに居住用不動産に関する商品知識と販売スキルを得ることができたのである。在庫処理が一段落して特販チーム解散後、私は本社に戻って受託営業部(仕入部門=親会社以外の事業主から新築分譲の受託販売を取り付ける部門、商品企画の助言・価格分析・販売戦略立案が主な仕事、当時は親会社からの出向者を受け入れる特殊部隊)に異動することになるのだが、日々の「(販売戦略)提案書」の作成に辟易しながらも事業主に対して独自の経験知を以て説得することができた。若僧でも実体験を語るからこそ事業主は私の言葉に耳を傾けてくれたのだと思う。その後、受託販売部門、リテール部門の管理職として異動することになるのだが、どの部署の経験も私の貴重な財産となって現在に至る。
私は身を以て知っている。営業部門の責任者にとって「変革の志」と同等に「経験知」が必要不可欠なものであることを。然して「経験知」のみを語れば「老害」となりかねない危うさも。
このコラム欄の筆者
齋藤 裕 (昭和39年9月生まれ 静岡県出身)
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